あたみマルシェでお話をお伺いした「熱海大火」について調べていると、作家・坂口安吾も「熱海大火」について書いていた。
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坂口安吾「安吾巷談」
安吾巷談(あんごこうだん)とは、坂口安吾が文藝春秋にて書いたルポルタージュ。1950年1月号から12月号にかけて連載されたもの。その内容は、前年睡眠薬中毒になり入院を経験した坂口安吾自身の身の上の延長でもあるテーマ「薬物乱用」についてはじまり、熱海大火、ストリップなど戦後間もない世相を映し出したものとなっている。いづれも青空文庫にて無料で公開されているので、興味ある方は読んでみてはどうだろうか?
01 麻薬・自殺・宗教
02 天光光女史の場合
03 野坂中尉と中西伍長
04 今日われ競輪す
05 湯の町エレジー
06 東京ジャングル探検
07 熱海復興
08 ストリップ罵倒
09 田園ハレム
10 世界新記録病
11 教祖展覧会
12 巷談師退場
ところで熱海大火とは・・・
熱海大火
熱海市役所のサイトにはこう書かれています。
昭和25年4月13日午後5時15分ころ、ガソリン入れ替え作業のかたわらで、煙草に火をつけたマッチの燃えさしを捨てたことにより火災発生。火は折からの15メートルの東風のため、たちまち燃え広がりました。出火と同時に全市の消防団が出動し懸命の消化に努めましたが、強風にあおられた猛火は斜面をはい上り、飛び火して8か所が同時に燃え上がる大火となったのです。市内には川や水源はありましたが、二車線通行のできる道路がなく、曲折と坂道が多いため消火活動は難航し、大火は、東町・渚・銀座・浜町・本町・糸川町・新宿・下天神町・天神町など、市の中心部、繁華街を総なめにし、上天神町の一部も焼いて、14日午前0時半ころようやく鎮火しました。
この大火の被害は、焼失979棟、被災1,465世帯、5,745人、損害55億円にのぼり、市の4分の1が壊滅しました。焼失建物には、市役所・郵便局・公会堂・警察署・消防署・食糧公団事務所などの官公署のほか病院・百貨店や40余軒の温泉旅館もあり、市の中枢機能はほとんど失われてしまいました。「熱海市役所あたみ昔ばなし」より
坂口安吾は、その熱海大火をどう見たのか・・・
文藝春秋1950年7月号「熱海復興」
昭和25年、坂口安吾は薬物中毒のために入退院を繰り返していた。そんな中、少しだけ使った薬物のために病気が再発して狂乱状態なり。しかたなく妻と静岡県伊東市に移り住みむ。温泉療養で体調を取り戻し、そのまま伊東で犬と一緒に生活を送っていた。伊東の隣町・熱海での大火事は当時のビックニュース、坂口安吾がその大火の様子を書いている。
ちなみに、安吾は犬が大好きで1951年11月発行の文藝春秋で書いた「秋田犬探訪記」では
「私は犬が好きだ。何匹いても邪魔にはならないが、小犬一匹の遊び場にも足りないぐらい家も庭もせまいから、欲しい犬も思うように飼えないのである。目下生後五ヶ月のコリーと一歳三ヶ月ぐらいの中型の日本犬がいるだけだ。」
と書いている。ということは、伊東では飼い始めた犬は中型犬の日本犬であろう。愛犬と一緒に伊東で暮らしている昭和25年の春、熱海で大火事が発生した。
下記「熱海復興」について
熱海大火前夜 駅前で大火事!
熱海大火は1950年4月13日に発生するが、その10日前にも熱海駅前の仲見世通りが火事に会い全焼した。仲見世通りは、現在も熱海駅前にある観光客に人気のお土産屋のならぶ商店街である。なんと80戸が焼失している、これはこれでかなりの大火事である。坂口安吾が住む伊東からもその火が見えていた。消火のための消防車は、近隣の市町村である伊東や小田原からも駆けつけている。興味深いのは、気になった野次馬たちが汽車に乗って熱海に向かったというのだ!なぜかと言うと、温泉地での火事の後には、消防隊の人などに振る舞い酒がでる。その酒めあてで、野次馬がやってきたいた。伊東の消防隊は、熱海が火事というと自分の町でもないのに、我先にと向かったという。
熱海大火当日 熱海の空が赤い!
そのような火事があった10日後に、またもや熱海で火事。一報が入ったとき坂口安吾は「また、熱海で火事か〜」なんて感じだったが、熱海の方を眺めると、まるで戦火にみまわれたように真っ赤に空がなっていた。それを目撃した坂口安吾は、我先に列車に乗って向かおうとするが、列車の運賃がなく家に取りに帰ると、坂口安吾以上に妻が熱海行きに積極的である。ビックリ!
伊東から熱海へ向かう坂口安吾
伊東の人たちは、熱海の方を心配に眺めていると、次から次への噂話が流れたきたそうだ。
「支那料理の幸華が焼けたとか」
坂口安吾がたまに行っていた中華料理「幸華」さんの名前も出て来る。
伊東から熱海行きの列車にのった安吾、すでにこの時点で野次馬の満員列車。途中駅の網代駅でも漁師のアンちゃん達が乗ってきた、こりゃもー阿鼻叫喚地獄の野次馬列車になる。満員列車は、熱海駅の手前の来宮駅に停車し、坂口安吾たちは降りる。この来宮駅は山の手にある駅で、当時は熱海市街地を見下ろせた感じだった。今は、多くの建物がありそう簡単に見下ろすことはできない。安吾が眼下にした熱海の町は、まさに焦土。午後五時に出火し一気に延焼、最終被害の9割が燃えた状態の時に安吾は訪れいている。到着時間の表記はないが、午後8〜9時には熱海・来宮駅に到着したと推測できる。最終的な鎮火は明けて0時。わずかな時間で燃え広がっていることから、この大火の火の手すさまじいことが伺える。
ガソリンにタバコを捨てると燃える?燃えない?
出火の原因は、二十歳前後の工事の労務者が、ガソリンの上にタバコを捨てると燃えるか?燃えないか?の賭けをした。そして、ガソリンの上にタバコを放り、引火、大爆発、一気に熱海を覆い尽くす大火に。。。バカ過ぎる。。。どう考えても燃えるだろう?
坂口安吾の話が脱線 ◯◯組について
火事の原因を作った工事の会社の人と関係があった坂口安吾。工事会社の知人に「売れる雑誌」作りを頼まれている。雑誌を作れば売れる「雑誌ブーム」が、このころ以前に起きていた。昭和25年には、雑誌ブームは終わり出版不況になっている。平成でも出版不況と言われていますが、昭和20年代からも同様なことを言われていたんですね。
ここで火事とは全然関係ないが雑誌作りの話の中で坂口安吾がいいこと言っている
『アッと言わせるのはカンタンだが、もうけるのは大事業なのである』
宣伝や広告でアッと言わせるのは簡単である、それをどう事業として成功させるかが大事。クリエイティブとマーケティングが両輪であることを、安吾先生が言ってくれています。
帰り路 血まみれの網代駅!
話は戻り帰りの列車について。終電一本前の列車で伊東に戻るのだが、これまた満員電車で阿鼻叫喚地獄だった。網代の駅では、漁師のあんちゃん達が熱海で喧嘩しての帰っていて、血まみれになっているのを目撃している。さすが漁師さんたち、血の気が多い。。。
なぜか伊東で芥川賞作家・石川淳に遭遇?!
そして伊東に帰ると、なぜか新潮社の編集者と小説家・石川淳にばったり会う。なんでも熱海に来ていて町中を散歩していたら、町が火事という話を聞く。避難すると思いきやノンビリと宿に戻り温泉に入っていた二人。その後、女中さんに火の手が迫っていると急かされて、宿を逃げでた。駅や人がいる方に避難せずに、寂しい夜道を伊東方面に編集者と走って逃げている。なんとも不思議な光景である。昭和20年代、作家たちがこぞって熱海に来ていたことを伺いしるエピソード。
野次馬は小説家の必要な資質!
後日、評論家・福田恆存氏に会った坂口安吾、熱海大火を見に行ったのを自慢して、野次馬根性の資質は小説家に必要だ!なんで話もしている。「バルザック、ドストエフスキーも野次馬」なんですって。
この後、坂口安吾によるパンパン論が記されている
(略)
興味があるかたは、青空文庫から読んでみてください。
そして、都市デザインについて
ここは、そのまま引用させて頂きます。
だから、温泉都市の諸計画が、その土地の人たちの自分だけの利害や、小さな趣味で左右されるのは正しいことではない。
すくなくとも、熱海の復興は、かなり多く自分の利害をすて、遊覧客全部のもの、という奉仕精神を根本に立てることを忘れていないので、復興が完成すれば、熱海の発展はめざましいだろうと思われる。
食事は皆さんお好きなところで。閑静、コンフォタブルな部屋だけかします、というホテルがたくさんできて、中心街にうまい物屋がたくさんできれば、私は大へん助かるのだが、今度の復興計画には私の趣味まで満足させてくれるような行き届いたところはない。しかし熱海はすでに東京の一部であり、日本の熱海であるような性格をおのずから具えつつあるのだから、もう、これぐらいの設備を考えてもいいのじゃないかなと私は思う。
熱海のオジチャン
ヒゲたてて
糸川復興
りきんでるしかし、てれる必要はないのである。なぜなら、今に日本の総理大臣官邸に於ては、大臣どもが閣議をひらいて、日本の糸川の建設計画について、ケンケンガクガクせざるを得ないようになるだろうからである。
熱海のすみやかなる、又、スマートなる復興を祈る。
この後、熱海は国と県の支援の元、復興が行われた。法整備により
静岡県熱海市:熱海国際観光温泉文化都市建設法(昭和25年法律第233号)により指定。行政によって、日本の国民生活・文化及び国際親善に果たす役割が大きい都市とされ、法令に基づき整備事業に国庫からの補助。
戦後復興ままならぬ各地をヨソに、朝鮮戦争特需もあいまり、一気に温泉街・熱海ができあがりました。それも、要人・文人に愛された町という背景があったのは明らかです。