「違和感」「気持ち悪さ」「息苦しさ」。映画『MEN 同じ顔の男たち』(2022)を観終わった直後、私がまず抱いたのは、まさにこの三つの感情でした。何か強烈なショックがあるわけではないのに、身体の奥底からむずむずと湧き上がってくる不穏さ。それは、まるで静かな水面下で巨大な怪物がうごめいているような感覚で、一種の緊張を絶えず強いられる体験だったと思います。決してド派手な演出でビックリさせるのではなく、観客の心に潜む「何か」をほじくり返すように、じわじわと“息苦しさ”を醸成してくる。それこそが、本作の最大の特徴と言っていいでしょう。
●ストーリー
夫の死を目の前で目撃してしまったハーパー(ジェシー・バックリー)は心の傷を癒すため、イギリスの田舎街を訪れる。そこで待っていたのは豪華なカントリーハウスの管理人ジェフリー(ロリー・キニア)。ハーパーが街へ出かけると少年、牧師、そして警察官など出会う男たちが管理人のジェフリーと全く同じ顔であることに気づく。街に住む同じ顔の男たち、廃トンネルからついてくる謎の影、木から大量に落ちるりんご、そしてフラッシュバックする夫の死。
不穏な出来事が連鎖し、“得体の知れない恐怖”が徐々に正体を現し始めるーー。
●キャスト
ジェシー・バックリー
ロリー・キニア
パーパ・エッシードゥ
ゲイル・ランキン
サラ・トゥーミィ
●スタッフ
監督・脚本:アレックス・ガーランド
製作:アンドリュー・マクドナルド、アロン・ライヒ
撮影監督:ロブ・ハーディ
美術:マーク・ディグビー
編集:ジェイク・ロバーツ
音楽:ジェフ・バーロウ、ベン・ソールズベリー
Contents
作品考察『MEN 同じ顔の男たち』
◇ 1. 作品概要と監督の略歴
本作『MEN 同じ顔の男たち』は、監督・脚本を務めるアレックス・ガーランドが手がけたホラー・サスペンス映画です。イギリスの片田舎に足を運んだ女性ハーパーが、そこで出会う男性たち全員が同じ顔をしている、という奇妙極まりない設定を核としています。主人公ハーパーを演じるのは、『ロスト・ドーター』(2021)で注目を集めたジェシー・バックリー。彼女の繊細な演技は、終始作品に張り詰める不安感を支え、物語が持つ心理的な重圧を観客にダイレクトに伝えてくれます。そして“同じ顔の男たち”を見事に演じ分けているのがローリー・キニア。舞台出身らしい豊かな演技力で、複数の男性キャラクターを巧みに切り替え、どこか風刺的でありながら背筋の凍る存在感を生み出しています。
さて、アレックス・ガーランドについて少し触れましょう。彼はもともと小説家としてキャリアをスタートさせ、1996年に発表した小説『ザ・ビーチ』が一躍話題となりました。同作は映画化もされ(ダニー・ボイル監督、主演レオナルド・ディカプリオ)、若くして脚光を浴びたわけです。その後、『28日後…』(2002)の脚本を手がけ、ホラーやサスペンスの分野で独特の世界観を提示。さらには『ジャッジ・ドレッド』(2012)の脚本に参加するなど、ジャンル映画における脚本家としての地位を築きました。そして満を持して、ガーランドが監督デビューを飾ったのが『エクス・マキナ』(2014)。人工知能(AI)と人間の境界に切り込んだ挑発的なテーマが大きな話題を呼び、アカデミー賞視覚効果賞を受賞。以降、『アナイアレイション -全滅領域-』(2018)では異形の生態系が広がる謎の“エリアX”を舞台に、人間の知覚やアイデンティティを根底から揺さぶるようなビジュアルとストーリーを展開してきました。
こうした作家性を持つガーランドがホラー要素をさらに前面に押し出したのが、この『MEN 同じ顔の男たち』です。ジャンル的にはフォークホラーの系譜に属しながら、同時に心理ホラーや身体ホラーの要素を大きく取り込み、まるで“ガーランド流の集大成”ともいえるスタイルを確立しました。少人数キャストで、特定のロケーションを舞台に、登場人物たちの精神や肉体をじわじわと追い詰める構図には、“SFサスペンス”の枠を超えた新たな挑戦がうかがえます。
◇ 2. ストーリー:罪悪感と恐怖の可視化
物語は、夫を亡くしたばかりの女性ハーパー(ジェシー・バックリー)が、癒やしを求めてイギリスの田舎町に滞在するところからスタートします。この地は鬱蒼とした森や古い教会跡、さらに神話的な石像が残るなど、どこか土着の宗教や伝承が息づいている雰囲気に満ちています。しかしそののどかさとは裏腹に、町で出会う男性たちは皆、微妙に違った外見でありながら、なぜか同じ顔(ローリー・キニア)の持ち主でした。警官や神父、宿の管理人、さらには不気味な少年まで、まるで彼女を取り囲む世界そのものがひとつの“集合体”のように感じられるのです。
この不可解な設定が何を意味するのか。物語が進むにつれ、ハーパーの過去――夫の死の真相、夫との関係における罪悪感――がじわじわと浮上してきます。心の傷が癒えないまま、田舎の滞在先で“休息”を得ようとする彼女に、同じ顔を持った男たちは容赦なく干渉してくる。セクシャルな視線、暗に責め立てるような言葉、あるいは“この田舎ではお前はよそ者だ”とばかりの微妙な差別意識。さまざまな不安要素が積み重なり、ハーパーはどんどん追い詰められていきます。
極めつけはクライマックスの“連続出産”シーン。複数の男性キャラクターが異形の出産を繰り返す、まさにボディホラーの権化ともいえるショッキングな場面ですが、単なるグロテスク描写にとどまりません。“男性性”が絶えず再生産されていく様や、その影で一人の女性が孤立無援のままトラウマに向き合わざるを得ない構図は、観る者に大きな衝撃を与えます。身体の内側がねじ曲がるかのような気持ち悪さ、そこにどこかしら神話的な荘厳さも交えて、ガーランド独自の“人間存在への問い”を突きつけているのです。
◇ 3. テーマ:男性支配構造と女性のトラウマ
男たちが全員同じ顔をしているという設定は、一見するとジョークのようですが、実際には「男性優位社会」という大きな権力構造を象徴的に表現していると考えられます。彼ら一人ひとりの性格やバックボーンは異なるはずなのに、ハーパーから見れば「すべて同じ」としか感じられない。そこには、“男性”というカテゴリで一括されてきた幾多の押しつけやハラスメント、あるいは社会的な呪縛が凝縮されています。
また、この映画が興味深いのは、主人公がただ一方的に男性社会の被害者として描かれているわけではないという点です。もちろん彼女は夫の死に関して深い罪悪感を抱いていますが、それが“自己否定”へと転じていくことに対して、最後にはある種の決着を付けようとする。男性の視線だけでなく、自分自身が抱える“心の傷”と向き合うという面で、物語が内面化していくわけです。そのため、フォークホラーの空気感やボディホラー的な衝撃がありつつも、本質的には「人間の内側に眠るトラウマとの対峙」を強く描く作品と言えるでしょう。
◇ 4. 視覚・演出の特徴:フォークホラーと身体ホラーの融合
『MEN 同じ顔の男たち』の印象を語るうえで欠かせないのが、そのビジュアル表現です。静謐で美しいイギリスの田園風景の中に、どこか禍々しい神話的モチーフが潜む。たとえば作中に登場する“グリーンマン”の彫刻は、ケルト伝承や古代の自然崇拝を象徴する存在であり、男性性や再生産・再誕生のイメージと結びつくことがあります。また“シーラ・ナ・ギグ”と呼ばれる女性像の石像も登場し、女性性や出産、受容を示唆する象徴として不気味に配置されている。こうしたフォークホラー的な“土地の呪術性”が、作品全体を包む不安感を増幅させています。
一方で、その終盤に展開される“連続出産”や“身体変容”の描写は、まさにボディホラーの極致。皮膚や骨格の歪み、血液の生々しさなど、観客が思わず目を背けたくなるようなヴィジュアルでありながら、それが女性のトラウマと男性性の暴走を象徴していると考えると、強烈なメタファーとしての説得力を持って迫ってきます。映像の撮影はガーランド作品でおなじみのロブ・ハーディが担当し、自然光の柔らかさと、薄暗い室内での不気味な陰影を巧みにコントラストさせることで、静と動の緊張を観客にリアルに伝えてくれます。
■ 映画史のなかでの位置づけ
◇ 1. フォークホラーの系譜
まず注目したいのは、本作がイギリスの“フォークホラー”の流れを正面から受け継いでいる点です。フォークホラーとは、土着の儀式や農村地域に伝わる怪奇伝承などを題材にしたホラー作品を指し、1970年代の『ウィッカーマン』(1973)や『血ぬられた祭り』(1971)などがその代表格とされています。都市文明とは相容れない古い因習や宗教観、自然崇拝といった要素が絡み合うことで、独特の不安感や妖しさが生まれる。『MEN』においても、田舎の風習や石彫のモチーフが取り入れられ、その地域社会が持つ底知れぬ力が、不穏な空気感を形成しているのです。
また、近年は『ミッドサマー』(2019)のような世界的ヒット作が出現したことで、フォークホラーが再注目されていますが、『MEN』はより個人の内面にフォーカスし、フォークホラーの外枠を心理ドラマへと大きく傾斜させた印象を受けます。単に“よそ者が奇怪な村に閉じ込められる”という展開ではなく、主人公の内側で起こっている罪の意識が、この土着的な空気とシンクロして拡大していく。この融合こそ、本作がフォークホラーの伝統を継ぎながらも独自の進化を遂げている理由でしょう。
◇ 2. 心理ホラーとボディホラーの融合
ホラー映画の歴史を振り返ると、1960年代以降はより“心理的な恐怖”を正面から描く作品が注目されるようになります。代表例としては、ロマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)やスタンリー・キューブリックの『シャイニング』(1980)などが挙げられます。そこで重要なのは“恐怖の客体が本当に存在するのか、主人公の頭の中の妄想なのか”という曖昧さです。『MEN』においても、同じ顔の男たちは実在するのか、あるいはハーパーの内面が生み出した幻覚なのか、最後まで観客に解釈を委ねるような演出が目立ちます。
同時に、1980年代以降隆盛を極めたデヴィッド・クローネンバーグなどによる“ボディホラー”の要素も色濃い。身体が壊れ、変容し、再生産されるというグロテスクな映像は、“見たくないのに見てしまう”嫌悪と興味の奇妙な共存を誘います。『MEN』のクライマックスがまさにそれで、男性キャラクターが次々と“自分自身を生む”光景は、観る者に生理的な不快感を与えると同時に、“男性性の連鎖”というテーマを直感的に理解させるインパクトがあるのです。
◇ 3. A24が牽引する“エレベーテッドホラー”の潮流
本作を語るうえで忘れてはならないのが、製作・配給のA24という存在です。A24は、『ヘレディタリー/継承』(2018)や『ミッドサマー』(2019)、『ライトハウス』(2019)など、いわゆる“エレベーテッドホラー”と呼ばれるジャンルの話題作を多数手がけてきました。エレベーテッドホラーとは、従来のホラー映画に多かった“ジャンプスケア”や“スプラッタ描写”中心のスタイルとは一線を画し、ストーリーやキャラクターの深み、映像の美術性、さらに社会批評的な要素を重視した新しいホラーの潮流を指します。
『MEN』の場合、“男性支配の問題”や“女性のトラウマ”といった社会的テーマを象徴的かつ直接的に描き出しており、これこそがA24が得意とする“ホラーと社会問題の融合”です。また、抽象的で解釈を大きく開放するラストは、賛否両論を呼びやすいがゆえに、SNSや批評家のあいだで盛んに議論される傾向にあります。このような賛否分かれる作品こそ、A24が提示してきた“アート的探究心”と“商業的エンタメ”との絶妙な狭間を突く戦略であり、現代ホラー界における彼らの存在感の大きさを改めて感じさせてくれます。
◇ 4. アレックス・ガーランド作品の一貫性
アレックス・ガーランドのフィルモグラフィを振り返れば、常に「人間の根源的な問い」に切り込んできたことがわかります。『エクス・マキナ』ではAIとの境界を、『アナイアレイション -全滅領域-』では未知の生態系と人間の認識を、『28日後…』では感染パニックによる人間性の崩壊を――といった具合に、ジャンル映画の枠を活用しながら、常に“人間とは何か”を問い続けている作家です。今回の『MEN』では、男性と女性という普遍的なテーマを通じて、人間の心の闇を露わにしていますが、その背後には「人間が自らの内面を正面から見ることの恐怖」が据えられています。
また、ガーランド作品はしばしば明確な答えを提示しません。『MEN』においても、「そもそも同じ顔の男たちは本当に存在したのか」「ハーパーは何を得たのか」という問いが最後まで宙に浮いたままです。しかしそれは監督が無責任に物語を投げ出しているわけではなく、観客自身が自分の体験や心の奥底にある感情と照合しながら結論を導く“余白”を残しているのだと感じます。私としては、この不親切さこそがガーランド作品の醍醐味であり、ひとつの芸術的挑戦だと思うわけです。
■ まとめ
改めて言うと、私が『MEN 同じ顔の男たち』を観終わったときに抱いたのは、「違和感」「気持ち悪さ」「息苦しさ」の三拍子でした。しかし、ただ「不快だった」という感想で終わらないのが、この映画の恐ろしいところです。あの息苦しさには確かに理由があって、それは私たち観客が日々見過ごしている男性社会の歪みや、生活の中に抱えるトラウマを映し出しているからなのではないか。言い換えれば、観客が体験する不快感は、現実からの逃避ではなく、むしろ現実を鋭く照らし出す“覚醒”のような力を持っているのかもしれません。
映像製作者という立場からすると、本作はホラーという枠組みを最大限に活かして、人間の深層心理やジェンダー問題を掘り下げる野心的なチャレンジだと感じます。A24というスタジオの後押しもあって、決して大衆ウケ一辺倒ではないが、強烈な議論や批評を呼び込む内容に仕上がっている。そして、アレックス・ガーランドという作家が持つ“存在論的問いかけ”を、より一般的なテーマ(男女関係、夫婦関係)へと収斂させたことで、多くの観客が感じる違和感がリアルな“自分ごと”につながる。これほどの“攻めた”作品がメジャーに流通するようになったのは、ある意味でホラー映画界にとっての大きな転機ではないでしょうか。
ガーランド作品を通じて改めて痛感させられるのは、ホラーやサスペンスというエンターテインメント性の高いジャンルが、実は最も深く人間の本質をえぐり出す可能性を秘めているということです。驚かせるだけではなく、観客に内省を促し、社会や個人の中に巣食う問題と対峙させる力こそが、現代ホラーの新潮流であり、『MEN』はその象徴的な一本と言えるでしょう。
以上が、『MEN 同じ顔の男たち』の単独考察と、その映画史的な位置づけです。違和感を持ち帰り、気持ち悪いと思いながら、なおかつ息苦しさにさいなまれる。それでも“何かを観てしまった”感覚が頭から離れない――そんな作品だからこそ、本作は長く語り継がれ、今後も議論の種を提供し続けるに違いありません。作品の意図をすべて読み解くのは難しいかもしれませんが、そこにこそこの映画の価値があると、私は確信しています。