熱海にみる芸術家たちの足跡
熱海と聞けば、温泉、花火大会、海の幸グルメ…。このブログを読んでくださっているみなさんはどんなものを思い浮かべるでしょうか? 実は熱海は、あの有名な美術作品が見られる場所でもあり、また近代文学を代表する小説家たちのゆかりの地でもあります。今回の記事では、アートと熱海のかかわりをご紹介していきたいと思います。熱海の魅力を改めて発見するきっかけになれば幸いです。
熱海で見られる国宝とは?
高台から熱海の海を一望できるMOA美術館。この美術館には一生に一度は実物を見ておきたい、日本美術の逸品が収蔵されています。その作品とは国宝《紅白梅図屏風》。尾形光琳によって江戸時代中期に描かれた作品です。金箔で作られた下地に、右隻に紅梅、左隻に白梅を配し、中央には滑らかな線で渦巻のような模様を描き、水の流れが表現されています。美術に詳しくない方でも、どこかで一度は見かけたことがあるのではないでしょうか。
本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳・乾山をはじめとした絵師や工芸家により、桃山時代から江戸期、そして近代にかけて作られた豪華で装飾的な美術作品の形式は「琳派」と呼ばれています。「琳派」は、国内外の芸術家やデザイナーにも影響を与え、日本美術の中でもファンの多い大人気のジャンルですが、《紅白梅図屏風》はその琳派を代表する作品です。
ダイナミックで華やかな画面に圧倒されますが、「たらし込み」という技法を使って苔が表現されていたり、図案化された水流の部分には、硫黄により銀箔を黒色変化させるという化学変化が用いられるなど、実験的な制作手法が巧みに取り入れられているところも本作の面白いところ。
MOA美術館では、日本や中国など東アジアの美術作品を中心にコレクションが形成されており、なんと国宝が他にも2点、重要文化財が67点という充実ぶり。作品保護の観点から、お目当ての作品の展示が行われていない期間もありますので、ご来館の際は、事前に確認してみるのがおすすめです。
*MOA美術館 URL: http://www.moaart.or.jp/
画家・写真家にも愛された熱海
明治から昭和にかけて活躍した近代日本画壇の巨匠・横山大観も熱海を愛していた人物の一人。実は熱海には「大観荘」という名前の宿泊施設が存在します。株式会社中山製鋼所の創業者・中山悦治によって建てられた別荘がはじまりですが、大観と交流のあった中山は1948年、この建物を旅館としてスタートさせるにあたり、旅館の名前に大観の名を入れることを快諾してもらい「大観荘」と名づけました。大観が宿泊した部屋は「大観の間」と呼ばれ、現在も残っています。
*大観荘 URL: https://www.atami-taikanso.com/
洋画家・梅原龍三郎も熱海を訪れ、すぐれた作品を描き残しました。1933年に制作された《熱海野島別荘》という作品が神奈川県立近代美術館に収蔵されています。野島別荘というのは、友人の写真家・野島康三の所有する熱海にあった別荘。建物の外観が椰子のような植物とともに、のびのびとした筆致と鮮やかな色調で捉えられています。夏の日差しが画面いっぱいに感じられ、見る人の心も癒してくれるような作品です。
*《熱海野島別荘》 URL: http://www.moma.pref.kanagawa.jp/webmuseum/detail?cls=attkn&pkey=778
また、社会的リアリズムを追求した写真家・土門拳は《こさめ 熱海》という題の作品を残しています。こちらの作品は1955年に撮影されました。雨のぱらつく路上で、長靴をはいた小さな女の子二人は、頭に手拭いのようなものをかぶり、あどけない表情でカメラに視線を向けています。子どもたちの自然で生き生きとした姿を写した作品は、土門らしい作品といえます。
土門が被写体に選んだのは、寺院や仏像、著名人たちの肖像と多岐にわたりますが、子どもたちの姿を撮影した作品には、土門の温かい眼差しが溢れています。近所の子どもたちに声をかけ、駄菓子屋やおでん屋に連れていくことが好きだった土門のポケットには、子どもたちに渡せるようキャラメルが詰めてあったそうです。
熱海と文学
熱海という場所が芸術の作り手に影響を与えていたのは、もちろん美術の分野だけではありませんでした。熱海とかかわりの深い文学作品といえば、連続小説『金色夜叉』。明治期にベストセラーとなり、それがきっかけで熱海には多くの観光客が訪れるようになりました。
『金色夜叉』の主人公は貫一とお宮。二人は結婚を誓い合っていたものの、お宮が資産家に嫁ぐことに。物語のハイライトは、裏切られたと感じた貫一が、熱海の海岸でお宮を蹴り飛ばし、別れを告げるシーンです。このことから1919年には松の木のある場所に句碑が建てられ、さらに1986年にはその隣に「貫一・お宮の像」が設置されました。
また作者である尾崎紅葉の功績を称えるために「尾崎紅葉祭り」が毎年1月17日に開催されています。貫一がお宮と泣く泣く別れたのが1月17日の月夜の晩だったことにちなんでいます。
熱海を愛した文豪は多くいます。『春琴抄』『陰翳礼讃』といった作品を残した谷崎潤一郎もその一人。彼にとっても熱海はお気に入りの場所だったようで、1942年に熱海に別荘を購入、『細雪』を発表した翌年の1944年、家族で熱海に疎開します。戦後になると再び熱海に別荘を購入し、さらに4年後には、新しく別荘を借りて転居しました。晩年になるまで過ごした熱海では、多くの作品が執筆されました。
谷崎潤一郎は美食家であったと言われますが、熱海の街には谷崎が足を運んでいたお店が今も残っています。「MONT BLANC(モンブラン)」で執筆を終えた谷崎がよく注文していたのが「モカロール」というケーキ。控えめな甘さが魅力のお菓子はぜひ試してみたいもの。
*MONT BLANC(モンブラン)URL:http://atamimontblanc.web.fc2.com/
物書きと熱海グルメといえば、坂口安吾がしばしば訪れていた中華料理店「味の幸華」もおすすめです。地元の人々にも大変人気のあるお店で、ジャンボ焼売や油淋鶏、揚げあんかけ焼きそばなど、美味しそうなメニューがずらりと並びます。なかでも坂口安吾のお気に入りは五目そば。このお店の近くの旅館に滞在している際に好んで注文していたそうです。
*味の幸華 URL: https://ajinokouka.com/
また、「起雲閣」と呼ばれる別荘には、谷崎潤一郎のほか、山本有三、志賀直哉、太宰治など文豪たちが滞在していました。太宰は『人間失格』を執筆中、起雲閣別館に滞在していたと言われます。玉川上水で心中をする約3ヶ月前のことでした。現在この美しい建物と庭園は、熱海市の文化財となり一般にも公開されています。
*起雲閣 URL:https://www.city.atami.lg.jp/kiunkaku/
そして『走れメロス』という太宰の有名な作品は、実は熱海でのある事件が創作のきっかけとなったと言われています。太宰の内縁の妻に頼まれ、太宰の友人である檀一雄は必要なお金を届けるため熱海に向かうものの、太宰と合流すると女遊びをしてそのお金を使い切ってしまいます。そこで太宰は檀を熱海に残しお金を借りに行くと言って出ていくのですが、待てども待てども太宰は帰って来ず、井伏鱒二と東京で将棋を指していたのでした。
太宰とメロスがとった行動はまったく異なりますが、小説の内容と重なりあう出来事が熱海で起こっていたと思うと面白く感じますね。
文学を愛する方なら、お気に入りの小説を持って熱海に出かけ、文豪たちの足跡を辿ってみるのも興味深い体験となることでしょう。
映画に見る熱海の風景
映画史に残る名作を次々と生み出した小津安二郎監督の『東京物語』はあまりに有名です。広島の尾道で暮らす老夫婦が東京の子どもたちの元を訪れるというお話なので、広島と東京での出来事が中心に描かれますが、実は熱海でも重要な場面が撮影されました。
老夫婦は上京して子どもたちの住む家に宿泊するも、仕事でせわしない彼らは両親に冷たい態度で接します。両親の扱いに困った長男と長女は相談し、二三日の熱海旅行を提案。そして老夫婦は保養のために温泉旅館に宿泊することになるも、隣室では麻雀や音楽のショーが繰り広げられ、ゆっくり体を休めることもできないのでした。宿の近くに眺めの良い場所があると伝えられていた二人は翌朝、浴衣姿で海を見に行きます。防波堤に腰をおろし「そろそろ帰ろうか」と呟き、結局熱海に一泊しただけで帰ってきます。
熱海で撮影されたシーンは、水面がきらきらと輝く穏やかな海を背景に、老夫婦二人の後ろ姿が印象的に捉えられました。
『東京物語』は1953年に制作された映画なので、熱海は60年以上も前から日本映画の名作を作るのに一役買っていたわけですが、現在もドラマや映画の舞台として熱海の街はよく登場します。最近では、芥川賞を受賞した又吉直樹の『火花』を原作とした映画の撮影が行われ、サンビーチや仲見世商店街、銀座通りなどがロケ地として使われました。
熱海には「熱海怪獣映画祭」というユニークな映画祭も存在します。熱海の街は、今後映画とのかかわりがますます楽しみになってきそうです。
*熱海怪獣映画祭 URL:https://atamikaiju.com/
熱海とアートについてのまとめ
熱海に行けば日本美術史に残る名宝を観ることができますし、また、数多くの芸術の作り手たちにとって、熱海が創作の源となってきたことは確かなようです。熱海とアートのかかわりを意識し、今までとは少しちがった視点で熱海を訪れてみるのはいかがでしょうか。
文:namakemono
フリーランスとして文章の執筆やイラストレーションの制作を行っています。