【映画】考察『タクシードライバー』(1976年)とアンチ・ヒーロージャーニー

マーティン・スコセッシ監督の代表作とも言える『タクシードライバー』(1976年)は、ベトナム帰還兵でありニューヨークのタクシー運転手であるトラヴィス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)の孤独と狂気の物語だ。彼は不眠症を抱え、深夜のニューヨークをタクシーで流す日々を送るうちに、社会の暗部と自身の内面の焦燥を投影させていく。やがて彼は“街を掃除する”という歪んだ使命感を強く抱き、最終的には暴力による浄化を実行しようとするに至る。
Amazonプライムビデオ『タクシードライバー』

タクシードライバー

よく知られる「ヒーローズ・ジャーニー」は、ジョセフ・キャンベルが神話研究から導き出した“英雄の普遍的旅”の段階的プロットだ。しかし本作は、同じ構造に沿っている部分がありながらも、あらゆる意味で“正統”の道を外れた“アンチ・ヒーローの旅”として描かれている。つまり、トラヴィスは神話的な「啓蒙」と「成長」を果たす代わりに、社会や自分を傷つける「暴力」や「自己陶酔」を深めていくキャラクターでもある。いわば、通常の冒険譚なら“浄化される”はずの負の感情が肥大し、社会的孤立が進むにつれて狂気じみた“勝利”を果たすという、毒々しい変奏となっているのだ。

本稿では、『タクシードライバー』をジョセフ・キャンベル的な視点を応用しつつ逆照射することで、「アンチ・ヒーローが辿る歪んだ旅路」を構造的に整理してみたい。これは先に挙げた『E.T.』のような純粋で温かな“ヒーローズ・ジャーニー”とは対極にある。トラヴィスの内面には“他者からの理解を欲する孤独感”と“暴力衝動に裏打ちされた現実否定”が共存しており、この闇が彼を行動へと駆り立てるのだ。以下、その旅路を段階に分けながら考察していこう。

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Contents

1. 日常世界:孤独に沈むニューヨークの夜

1-1. トラヴィスの精神的背景

『タクシードライバー』の冒頭からわかるのは、トラヴィス・ビックルの“社会から切り離されたような孤独”だ。彼はベトナム戦争帰還兵らしいが、具体的にどのように従軍していたかなどは詳しく描かれない。観客が知るのは、「退役後、夜のタクシー運転手をしている」「不眠症で悩んでいる」「周囲に友人らしい友人がいない」といった断片だけである。

ヒーローズ・ジャーニーで言う“日常世界”は、主人公が当たり前の暮らしを営む舞台となるが、トラヴィスの場合、その日常がすでに“異常”に染まっている。ニューヨークの街は当時の治安の悪さや街娼、ポルノ映画館など、ドラッグと暴力が混在する猥雑さが蔓延している。物語冒頭のモノローグでトラヴィスは、街の汚濁を嫌悪しながらも、そこに半ば中毒的に引き寄せられる自分を意識している。

「この街を掃除したい」「雨でも降ってこの汚物を洗い流してほしい」

こうした台詞は、彼がすでに“日常”において強いストレスや嫌悪を抱え、それを排除する衝動(ある種の正義感に見えるかもしれないが、実は自己陶酔的なもの)に駆られていることを示唆する。通常のヒーローであれば“問題解決のための秩序や理想”を確立していくところ、トラヴィスは最初から“日常世界”そのものに不快感を持ち、それを自分の力でどうにか変えたいという欲望を内包しているのだ。

1-2. 対人関係の欠如

彼が何よりも苦しんでいるのは、不眠症や退屈以前に“居場所のなさ”である。社会的接点も乏しく、わずかに同僚のタクシー運転手たちと雑談を交わすが、深い友情とは言えない。深夜にポルノ映画館へ通い、一人虚ろな時間を過ごす姿は、彼の“孤独”を象徴的に描く。おそらく彼は心のどこかで他者との繋がりを求めているが、そのアプローチの仕方が極端かつ不器用で、結果として周囲とますます溝を深めている。

ここで通常のヒーローズ・ジャーニーなら、“平和に見えるが本当は満たされない生活”が描かれ、そこから“冒険への招待”へ繋がる。しかしトラヴィスの場合、この“満たされない生活”がすでに危うい均衡をはらんでおり、一歩間違えればすぐに暴発しそうな雰囲気を漂わせている。この段階で、観客は彼の“日常”がいかに限界的かを感じ取り、“この男がどこへ向かってしまうのか”という不穏な予感を抱くわけだ。

2. 冒険への招待:歪んだ正義感と行動のきっかけ

2-1. “呼びかけ”はどこから来たのか

ヒーローズ・ジャーニーでは「未知の力」との遭遇や、「これまでの日常を変えるような事件」が“冒険への招待”として機能する。しかし『タクシードライバー』の場合、トラヴィスにとっての“呼びかけ”は非常に曖昧だ。具体的な“ミッション”が与えられるわけではなく、彼自身が街の汚濁や政治への不信を慢性的に抱えており、それが溢れ出す形で“行動”が誘発される。

しかしながら物語を整理すると、“きっかけ”に近い存在がいくつか浮かぶ。

  1. ベッツィ(シビル・シェパード)との出会い
    彼女は大統領候補パランタインの選挙事務所で働いており、トラヴィスが一目惚れのような形で興味を抱く。彼女との関わりが、トラヴィスに一時的な“希望”をもたらすが、同時に彼がどれほど社会経験や常識に欠けているかを露呈させる(ポルノ映画に彼女を連れて行こうとするなど)。
  2. アイリス(ジョディ・フォスター)との邂逅
    12歳の少女売春婦。彼女を救いたいと願うトラヴィスの思いは、一見すると“正義感”の発露に見えるが、その実態は彼自身の中にある「汚れた街」を潰すという衝動の一端に過ぎない可能性もある。アイリスとの短い対話や接触が、彼の行動に具体的な形を与えることとなる。

このように、明確な“師”や“魔法のアイテム”が登場するわけではなく、むしろ“救済すべき存在”としてアイリスが位置づけられ、ベッツィへの想いがこじれていくなかで、トラヴィスは自分を“社会を救う正義の男”のように位置づけ始める。通常のヒーローなら“周囲の平和を守るため”などの大義名分がきちんと成り立つが、トラヴィスの場合、それは独善的であり周囲も同調していない“妄想”に近い。ここがアンチ・ヒーロー特有の“呼びかけ”の歪みである。

2-2. 拒否ではなく自己流の突き進み

一般的なヒーローズ・ジャーニーでは、“冒険への招待”に対して一度「自分には無理だ」と拒否する局面が描かれることが多い。しかしトラヴィスはむしろ、社会からのサポートがなくとも、自分の信じる“浄化”に突き進もうとする。一時的にベッツィにアプローチして拒絶されたことで、彼はより外向的な怒りや行動を高めていく。つまり、通常の“冒険拒否”とは反対に“拒絶される”側でありながら、本人の決意は揺るがない。ここにアンチ・ヒーローとしての孤独な強引さが際立つ。

3. 仲間と導師:トラヴィスを取り巻く人物相関

3-1. メンター不在の物語

ヒーローズ・ジャーニーの大きな要素に「導師(メンター)の存在」がある。しかし『タクシードライバー』には、そのような“正しい導き”を与える人物がいない。タクシー仲間の“ウィザード”(ピーター・ボイル)などが、トラヴィスから「頭の中が混乱している」と相談を受けても、的確なアドバイスは与えられず、「誰でもそんな時はある」と曖昧な言葉で流してしまう。つまり、トラヴィスには教師役が存在しないがゆえに、彼の暴走を誰も止められない。

この“メンター不在”こそが、トラヴィスをさらに孤独に追い込み、自己流の“正義”を育ててしまう原動力となる。通常のヒーローが“導師”から学んで成長するところが、本作では“孤立の深さ”となり、アンチ・ヒーローの暴力衝動を加速させる構造になっているわけだ。

3-2. ベッツィとアイリス:正義と救済の歪んだ投影

トラヴィスが関わる女性キャラクターとして象徴的なのが、ベッツィアイリスである。どちらもトラヴィスから見ると「救うべき存在」「理想を投影する対象」だが、その姿勢は自己中心的であり、相手の意志や状況を真に理解しているとは言い難い。

  • ベッツィ
    彼にとって“高嶺の花”的存在。彼女が政治活動をしていることもあり、“大統領候補を取り巻く世界”への憧れや、自分が外部者であるという疎外感が増幅する。ベッツィから拒絶されたことで、トラヴィスの孤独と憎悪はさらに濃くなる。
  • アイリス
    わずか12歳で街娼として働く少女。トラヴィスは「彼女を救わなければならない」と突如として使命感を抱くが、その方法は暴力的かつ一方的だ。彼自身の“汚れを浄化したい”という願望を押しつけている節もあり、アイリス自身の主体性はあまり尊重されていない。

こうした女性キャラクターとの関わり方は、トラヴィスの“歪んだヒロイズム”の象徴となる。彼は愛や救済を欲しているが、コミュニケーション不全と妄想的意識によって、相手を真に理解することができない。これが本作全体の悲劇性を増幅し、“アンチ・ヒーロー”という立ち位置を鮮明にしている。

4. 試練の始まり:孤立と暴力の準備

4-1. 異世界への足を踏み入れる

ヒーローズ・ジャーニーでは“異世界”への突入が物語の大きな転換点となる。トラヴィスの場合、それは彼にとって“正規の社会”から外れた闇の世界――すなわち、拳銃の密売人から武器を買い揃え、深夜にタクシーを流しながらあらゆる犯罪と接触する領域だ。彼は自ら望んでこの闇に踏み込み、武装を始める。一見すれば、従来のヒーローものが“強力な武器を得る”プロセスの反転だと言える。

さらに、トラヴィスは鏡の前で有名な台詞「You talkin’ to me?」を繰り返し呟きながら銃を構えるシーンで、自らを孤高の戦士へと仕立てあげていく。これがヒーローにおける“訓練”や“力の習得”に相当するが、内容は社会破壊的・暴力的なものだ。普通ならば師に指導され、仲間とともに力を磨くはずが、彼は自分一人きりで“戦闘力”を培い、“闇世界”へ歩んでいく。

4-2. 試練を与える“街の汚濁”

実際の“試練”としては、彼が夜ごとに目撃する売春、ドラッグ、暴力、そのすべてが“街の試練”となる。だがトラヴィスにとっては、それが“社会を掃除したい”というモチベーションを強化する燃料でもある。このあたりは通常のヒーローが“世界の危機に直面して守ろうと奮起する”姿と表面上は似ているが、動機が深く歪んでいる。

  • 自己愛と憎悪の狭間
    試練を乗り越えるたびに彼は「自分こそが正義だ」と高揚感を得るが、それは他者への理解に基づく行動ではなく、自身の正しさを証明したいという欲望の裏返しでもある。

こうして彼の内面はさらに閉じた世界へ入り込み、銃の所持や暴力の準備を進める。それは神話的には“闇の洞窟へと足を踏み入れる”過程に相当し、いつ爆発してもおかしくない危険なテンションを高めていく。

5. 最大の試練への接近:アイリスを救う計画と暗殺未遂

5-1. パランタイン暗殺への歪んだ情熱

ヒーローズ・ジャーニーでは通常、「敵対者の本拠地へ接近」や「ボスキャラとの対決」が最大の試練となるが、本作のアンチ・ヒーロー構造では、その“試練”がどこに存在しているのかが曖昧だ。トラヴィスが敵と想定しているのは、次の二つだろう。

  1. 政治家パランタイン
    ベッツィが崇める存在であり、トラヴィスには“腐った社会の象徴”と映る。彼は暗殺を実行しようとして、軍隊式に髪を剃り上げ、会場に乗り込む。しかしこの行為はあまりに唐突であり、その根拠も曖昧だ。むしろトラヴィスが抱える鬱積した感情のはけ口と見るのが自然で、彼の暴力衝動が“社会”そのものへの攻撃へと転化した形と考えられる。
  2. 少女売春を操るポン引き(スポーツ:ハーヴィー・カイテル)
    アイリスを救うための障害としてトラヴィスが設定している“街の汚濁”の体現者である。トラヴィスにとって、スポーツは“絶対に排除すべき悪”であり、アイリスを救出するためには彼を殺さなければならない存在だと映る。

パランタイン暗殺未遂は作中では未遂に終わり、警察やSPに追われたトラヴィスは逃走を余儀なくされる。結果として“社会の象徴”への攻撃は失敗するわけだが、これが彼を最終的な暴力行為――すなわちアイリスの救出という名目での大量殺人――へと駆り立てる引き金ともなる。

5-2. 死を覚悟した儀式

暗殺計画とアイリス救出の準備において、トラヴィスの精神状態は明確に“死を覚悟した”モードへ入っている。部屋を片づけ、金を返したり、自殺的とも言える振る舞いを示したりする。ヒーローズ・ジャーニーで言えば“死と再生”の前兆を感じさせるが、アンチ・ヒーローの場合はそれが自己犠牲ではなく、“社会や相手を巻き込んだ破壊”へと向かう点が決定的に違う。

  • モヒカンヘアへの変貌
    あのトレードマーク的なモヒカンヘアは、彼の内面の“戦闘モード”を可視化したものだ。いわば通常の冒険譚で“主人公が特別な武具を身に付ける”場面に相当するが、その外見は異様であり、社会性との断絶をさらに示している。

こうして彼は自分なりの“最大の試練”――アイリスを救い、スポーツを殺す――に臨む決意を固める。そこには通常のヒーローにある“崇高な精神”ではなく、歪んだ正義感と“死の願望”が混ざり合っている。その混沌がクライマックスを異様なテンションへと導くのだ。

6. クライマックス:血塗られた“救済”の実行

6-1. 激しい銃撃戦

クライマックスでは、トラヴィスが銃を手にアイリスを囲う売春宿へ踏み込み、ポン引きのスポーツや客を射殺していく。従来のヒーローものなら“悪を倒して少女を救う”という図式で観客のカタルシスを誘うが、本作の描写は凄惨だ。トラヴィス自身も負傷しながら、狭い空間で銃を乱射し、血まみれのままソファに倒れ込む。この銃撃戦は“最終ボスとの対決”に相当するが、観客はそれを“爽快な勝利”とは受け止めにくい。むしろ圧倒的な暴力の爆発と、その後に続く虚無感を感じさせる。

この場面でアイリスは悲鳴を上げ、逃げ惑う。彼女にとってはトラヴィスが“救いの騎士”であるかどうかも不明確だ。ただ、結果的には売春宿から彼女を連れ出す形となるが、それが本当にアイリスの意志や幸福に繋がるかどうか、映画の時点では断定できない。ヒーローが姫を助けるような単純な構図には決してならないのだ。

6-2. トラヴィスの“死”と再生の暗示

銃撃戦の末、トラヴィスは瀕死の状態となり、床に倒れ込んだまま頭に拳銃を向けて“自殺”を試みるような仕草を見せる。しかし銃弾が尽きており、発砲できない。警察が突入したとき、彼は“死にぞこなった”まま生き延びる。そのシーンは、ヒーローズ・ジャーニーでしばしば重要とされる“死と再生”を、非常に皮肉な形で映し出している。

ここでトラヴィスは本来なら死ぬべきかもしれないが、死を逃れ、奇妙な方向へ“再生”することになる。

7. 帰還:社会の誤解と“英雄”扱い

7-1. 新聞記事と世間の反応

ヒーローズ・ジャーニーの最終段階は「帰還(Return)」である。主人公が冒険を終え、学んだものを持って日常世界へ戻るのだ。しかしトラヴィスの場合、彼が戻ってきた“日常世界”では、社会が「売春組織を壊滅させた英雄」として彼を称賛する。それはマスコミの無責任な好奇心と、“少女を救った男”という安直なヒーロー像への飛びつきに過ぎない。

  • トラヴィスが期待していた“救い”がこれなのか?
    彼は社会から“良い評判”を得ることで、一瞬の満足や優越感を味わうが、それは同時に“誤解された正義”でもある。本人が求めていたのは“街を掃除する”ことであり、アイリスの救済はその一部にすぎず、さらにいえばパランタイン暗殺を狙ったことは伏せられている。つまり社会はトラヴィスの実像を知らず、表面的な“英雄物語”だけを消費しているのだ。

7-2. 再びタクシー運転手としての“日常”へ

映画のラストでは、トラヴィスは回復後に再びタクシー運転手として街に戻っている。一見すると、彼は“再生”を果たして普通の日常に復帰したかのように見えるが、果たして本当にそうなのだろうか。彼が鏡のバックミラーを覗いた瞬間、わずかに表情が硬直するシーンが挿入される。これは「まだ彼の中の狂気はくすぶり続けている」ことを示唆していると多くの解釈がある。

通常のヒーローズ・ジャーニーでは、「学んだ教訓や得た宝を持ち帰り、世界に還元する」ことで物語を円満に終える。しかしトラヴィスの場合、彼が“持ち帰る宝”は自分が世間から認知される“英雄の虚像”であり、その実態は解消されない孤独や暴力衝動である。ラストシーンに潜む不穏さが、“アンチ・ヒーローの旅”の結末を暗示している。

8. 『タクシードライバー』に見るアンチ・ヒーロー構造の特徴

ここまで、通常のヒーローズ・ジャーニーの段階をなぞるように『タクシードライバー』を分析してきたが、本作の本質は“アンチ・ヒーローの歪んだ旅”にある。その特徴を以下に整理してみよう。

8-1. 日常がすでに“負の世界”である

従来のヒーローは、まず“平穏な日常”を離脱することから冒険が始まる。しかしトラヴィスの日常は、深夜の暴力と退廃に満ち、彼自身も不眠症を抱えているという破綻寸前の状態である。これが前提となるため、観客は最初から「どこにも安息はない」世界を突きつけられ、ヒーロー的“希望”を抱きにくい。ここにアンチ・ヒーローの雛形がある。

8-2. メンター不在と自己流の暴走

トラヴィスには“導く存在”がいない。彼を救おうとするカウンセラーもなく、尊敬できる先輩や師匠もなく、恋人や家族からのサポートも得られない。一人きりで歪んだ思想を固め、自己流に武装し、街に復讐しようとする。この“メンター不在”こそが、アンチ・ヒーローを加速させる最大の要因である。

8-3. 正義があくまでも“主観的幻想”にすぎない

通常のヒーロー譚では、主人公の戦いは社会的に認められる正義(怪物や極悪人を倒す等)を伴う。しかしトラヴィスの場合、単に社会や女性から拒絶された個人的な怒りが、正義感に置き換えられているだけであり、その根拠や手段は疑わしい。結果的に“少女を救う”という形で人助けをしてはいるが、それも彼の暴走の一部であり、世間からは偶然“英雄”と見なされたに過ぎない。

8-4. “死と再生”が救いではなく、さらなる狂気の伏線

クライマックスの銃撃戦でトラヴィスは瀕死に陥るが、結局は生還して、世間から讃えられるという“再生”を得る。だがそれは“幸福”でも“学び”でもなく、彼の内面に残る狂気を隠蔽するための舞台装置でしかない。ラストシーンでの不穏なまなざしが、観客に「彼はまたいつか暴発するのではないか」という恐怖を残す。つまり、再生が本当の救いに結びつかない。

8-5. 帰還後の“勲章”がむしろ虚無を際立たせる

多くのヒーローは“宝”や“解決策”を持ち帰り、世界をより良い方向へ導く。しかしトラヴィスが持ち帰るのは“ヒーロー扱いされる偽りの自己像”だ。周囲は彼を“街の少女を救った男”として持ち上げるが、実際には政治家暗殺も企てた危険人物であり、心の闇は消えていない。こうしたミスマッチは、アンチ・ヒーロー特有の“皮肉なハッピーエンド”を形づくる。

9. 物語作りへの示唆:アンチ・ヒーローの旅路を描く際のポイント

『タクシードライバー』が示すようなアンチ・ヒーロージャーニーを自分の作品に取り入れる際、以下のポイントが参考になるだろう。

  1. 主人公の日常を“負の状態”として明確に提示する
    • 主人公がすでに問題を抱えている不健全な環境や内面を、冒頭で強調する。
  2. メンターや仲間が不在、もしくは無力である状況を作る
    • 導き手がいないことで、主人公の内面の声のみが増幅され、暴走に結びつく。
  3. 正義や使命が極めて自己中心的な幻想であることを示す
    • 一見すればヒーロー的行動に見えるが、根底には承認欲求や他者への憎悪がある、といった構造を明示する。
  4. “死と再生”を必ずしも清廉な救いとはせず、歪んだ形で扱う
    • クライマックス後に主人公が救われない、あるいは救われてもまだ破滅の予感を残す。
  5. 帰還における皮肉な結末
    • 社会や周囲が主人公を誤解して讃える、あるいは新たな暴発の可能性を暗示するなど、通常の“安堵”とは異なる結末を提示する。

ヒーローズ・ジャーニーの型そのものは、人間が物語に求める強い構造を持っている。しかし主人公をあえて“アンチ”に設定することで、その型の各ステップが反転や歪みを帯び、物語に強い毒やスリルをもたらす。『タクシードライバー』はまさにその代表例と言える。

10. 結論:歪んだ旅路の果てに見えるもの

アンチ・ヒーローであるトラヴィス・ビックルの“旅”を振り返ると、それはヒーローズ・ジャーニーの主なステップを辿っていながら、その意義がまったく異なる結末を迎える。彼は“日常=汚れた世界”に嫌悪感を抱き、“呼びかけ”というよりは自発的な憎悪と焦燥に突き動かされ、メンター不在のまま自己流に暴力へ邁進する。そして“最大の試練”を血なまぐさい銃撃戦で乗り越えることで、かりそめの称賛と生還を得るが、内面の問題が解消されたわけではない。

こうした物語は、観る者に強烈な衝撃と社会風刺を与える。通常のヒーローものが“自己成長と世界の改善”を描くのに対し、『タクシードライバー』は“自己陶酔と世界との乖離”をむしろ深めていき、その行き場のない結末を暗示して終わるのだ。トラヴィス・ビックルは、自分がまつろう社会に対して極端なまでに拒絶と敵意を抱きながら、最後は“社会に都合良く利用される”形で“英雄”扱いされる皮肉を味わう。こうした苦味こそ、本作が“アンチ・ヒーローの金字塔”と言われるゆえんである。

一方で、この作品が当時のアメリカ社会――ベトナム帰還兵の孤立、都市化による貧富の格差、犯罪蔓延など――を批判的に描写し、主人公の内面に焦点を当てることで、社会が抱える病理を体現した点も見逃せない。いわば、“アンチ・ヒーロー”というフィルターを通して、腐敗や孤独、暴力がどれほど強く相互に絡み合っているかを炙り出す社会派作品にもなっているわけだ。

『E.T.』のような純粋な少年の成長物語とは180度異なり、敗北感や憎悪を根底に抱えた主人公を冒険(あるいは破滅)に向かわせる際、“ヒーローズ・ジャーニー”的構造がいかに強力に作用するかを本作は示してくれる。観客は否応なくトラヴィスの行動を最後まで見届け、疑似的に彼の心の内へ入り込む。しかしそこで見えるのは救済でなく、さらなる孤立と暴力衝動の伏在する結末である――それこそがアンチ・ヒーロージャーニーの醍醐味であり、恐ろしさでもある。

『タクシードライバー』におけるアンチ・ヒーロージャーニーの要点

  1. 日常世界:既に限界的・破綻的な孤独
    • 不眠症と疎外感に苛まれるトラヴィス。最初から救いのない日常を漂う。
  2. 冒険への招待:社会と自身への嫌悪が増幅
    • 明確な“呼びかけ”はないが、ベッツィへの失恋やアイリスとの邂逅がトリガーに。
  3. メンターや仲間の不在
    • 誰もトラヴィスを導かず、彼の意識は内向的に歪んでいく。
  4. 試練:街の汚濁を見続けることで正義感を自己流に暴走
    • 拳銃を買い揃え、鏡の前で“戦士”としての自己暗示をかける。
  5. 最大の試練への接近:パランタイン暗殺未遂とアイリス救出
    • 政治家暗殺に失敗し、最後は少女売春宿に対する暴力へ突き進む。
  6. クライマックス:血なまぐさい銃撃戦
    • スポーツらを射殺し、アイリスを連れ出すも、その行為には凄惨な暴力が伴う。
  7. 帰還:社会から“英雄”扱い
    • 新聞や世間はトラヴィスを「少女を救った正義の男」と称賛するが、実態は理解されない。
  8. 結末:再生ならぬ“再び同じ日常”への回帰
    • タクシー運転手に戻ったトラヴィス。彼の狂気は完全には消えず、物語は不穏に幕を下ろす。

こうした構造は、キャンベル的“旅の段階”を一見なぞりながら、その裏で根本的に破滅志向が潜んでいる点が特徴だ。トラヴィスが示すのは“ヒーロー的成長”ではなく、“社会への復讐”と“浅薄な社会的賞賛”の取り違えである。観客はここに強烈なアイロニーを感じ、同時に彼の孤独と狂気にある種の同情や恐れを覚えるだろう。

もし物語創作においてアンチ・ヒーローを描きたいならば、この映画の構造が大きなヒントになる。すなわち、(1) 主人公の孤独と疎外を徹底して描く、(2) 正当化しきれない暴力や歪んだ正義を主人公が信奉する様子を見せる、(3) 社会が最後に誤った形で主人公を称賛するなどの皮肉を加える――これらによって、観客が従来の“英雄譚”に抱くカタルシスを逆手にとり、強烈なインパクトを与えることが可能となるのだ。

『タクシードライバー』は公開当時から議論を呼び、今なお“アンチ・ヒーロー映画”の金字塔として名高い。その原点には、ヒーローズ・ジャーニーの強固な骨格を逆用し、主人公を破滅に駆り立てながらも外面的には一見“成功”を収めさせるという、強烈な皮肉と構造的完成度がある。観る者は、最後に少しも救われた気がしない不穏な空気を胸に、この男の未来に思いを巡らすことになるだろう。

以上がアンチ・ヒーロージャーニーの視点から見た『タクシードライバー』の考察である。圧倒的な孤独と暴力性を抱えながら旅を続けるトラヴィス・ビックルは、“英雄の旅”がいかに破綻した形で成立するかを雄弁に示す。その歪んだ物語は、時代を超えて観客に鮮烈な印象を刻み続けているのだ。
Amazonプライムビデオ『タクシードライバー』

タクシードライバー

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