2019年に公開され、ヴェネツィア国際映画祭での金獅子賞受賞など大きな話題を集めた映画『ジョーカー』は、DCコミックスに登場するバットマン最大の宿敵“ジョーカー”の誕生譚を、社会問題の文脈と主人公の内面葛藤を通じて描き出す。従来はコミック原作の悪役でありながら、トッド・フィリップス監督は“リアルで重いドラマ”としてこのキャラクターを再解釈。ジョーカーとなる前の男――アーサー・フレック――の姿をじっくりと追いかける作品となった。
Amazonプライムビデオ『ジョーカー』
この映画は一見、“ダークヒーロー”あるいは“ヴィランのオリジン・ストーリー”として語られがちだが、同時に“アンチ・ヒーロー”の物語としても読むことができる。ジョーカーはコミック的には“犯罪の怪人”であり、伝統的な意味でのヒーロー性はまったく持ち合わせていない。しかし映画の視点をアーサーに固定し、彼の挫折や社会的疎外、精神疾患や生活苦を丹念に描くことで、観客は“主人公がいかにして世の中を敵に回していくか”を追体験する形になっている。
ジョセフ・キャンベルが説いた“ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)”には、「日常から非日常の世界へ踏み込み、様々な試練を経て成長し、再び日常へ帰還して恩恵をもたらす」という王道パターンがある。だが“アンチ・ヒーロージャーニー”では、この構造が歪曲され、破滅的・暴力的な“解放”へ行き着くケースが多い。映画『ジョーカー』のアーサーもまた、「成長」の代わりに“破滅的な変貌”を、“社会への貢献”の代わりに“社会との断絶”を果たしていく。この物語をあえて“歪んだ旅”としてとらえると、各ステップに何が見えてくるのか。ここから詳述していこう。
Contents
1. 日常世界:社会の底辺を生きるアーサー・フレック
1-1. アーサーの社会的立場と精神的不安定
物語序盤で提示されるアーサー・フレックの日常は、すでに絶望に彩られている。ゴッサム・シティという架空の都市は犯罪や貧困が蔓延し、富裕層との格差が激化していた。アーサーはピエロの派遣会社に勤め、街角で看板を回して宣伝をしたり、小児病棟で芸を披露するなどの仕事を引き受けるが、決して安定していない。加えて精神疾患のため定期的にカウンセリングに通っており、複数の薬を服用している。
まさにこれは“日常世界”としての舞台だが、観客はここに“どこにも安全や安心がない”ことを冒頭から突きつけられる。キャンベルの理論で言う「平和だが満ち足りない日常」ではなく、“もはや限界的な日常”に近い。アーサーは自らの笑いを制御できない病状(突発的に笑ってしまう神経症)や、他者とまともにコミュニケーションが取れない悩みを抱えている。社会保障が弱体化し、福祉サービスが縮小されていくゴッサムは彼を救わない。
ここには、ベトナム帰還兵として帰国しながら孤立し、不眠症に悩まされた『タクシードライバー』のトラヴィス・ビックルを思わせる“すでに壊れかけている日常”が見出せる。つまりアーサーはスタート地点で既に“社会から十分に守られていない弱者”なのだ。
1-2. 母との同居と“息苦しい家庭”
アーサーは老いた母・ペニーと二人暮らしをしている。作中では彼女の体調も芳しくなく、アーサーが献身的に介護や世話をしている場面が描かれる。ペニーは“トーマス・ウェイン(ゴッサムの大富豪)に救いを求める手紙”を頻繁に書いており、どこか妄想的な一面を見せる。アーサー自身も母との密着が生存戦略として欠かせない反面、そこに安定感や幸福があるわけではなく、一種の“閉塞”に陥っているように見える。
通常のヒーローも“日常世界”で家族や仲間との関係が描かれるが、アーサーの場合、この家庭が“癒し”にはならず、むしろ歪んだ期待感(「ウェインさんに助けてもらう」など)を煽ってしまう温床となっている。それは後に明らかになる母の過去やアーサー自身の出生の秘密に直結し、彼がアイデンティティを喪失する要因となる。いわば“家”という最もプライベートな場所すら、彼にとっては安寧を与えない“陰鬱な日常”なのである。
1-3. 孤立と嘲笑の中での「笑い」
“ピエロ”として働いているにもかかわらず、アーサーは“楽しさ”や“ユーモア”を見出せない。むしろ、彼が突発的に発する笑いは周囲から不気味に思われ、嘲笑を誘い、自分自身も苦痛を感じている。笑顔を振りまいて暮らすはずが、誰にも理解されず、挙句の果てには子供の看板を奪われてリンチされたり、路上で暴行を受けたりする。これらはすべて彼の日常の一部であり、観客には“当たり前のように繰り返される暴力や疎外”として映る。
ヒーローズ・ジャーニーで言う“事件が起こる前の静けさ”を、この映画は最初からほとんど否定している。アーサーの“平穏”はどこにもなく、まるで“すべての扉が閉じられた部屋”に閉じこもっているような状態で物語は始まるのだ。
2. 歪んだ“冒険への招待”:社会からの嘲笑と暴力
2-1. システム崩壊による“後ろ盾の喪失”
通常のヒーローズ・ジャーニーでは、主人公が未知の世界へ招かれる“コール・トゥ・アドベンチャー(冒険への呼びかけ)”がある。『ジョーカー』の場合、その呼びかけは“好奇心を刺激する未知の存在”や“英雄的使命”ではなく、むしろ“社会的セーフティネットの崩壊”として現れる。作中、アーサーが頼りにしていたカウンセラーとの面談が打ち切られ、薬の処方もままならなくなってしまう――市の予算削減により福祉が縮小されるという事態だ。
これは言い換えれば、彼が“精神の安定”をかろうじて保つための糸が断ち切られたことを意味する。通常、ヒーローが新たな世界へ踏み出すきっかけはポジティブな要因(冒険心や救援要請など)だが、アーサーの場合は「守ってもらえなくなった」というネガティブな要因が“外の世界”へ押し出す原動力になる。
2-2. コメディアン志望の挫折:拒否と嘲笑
アーサーは“いつか有名なコメディアンになりたい”という夢を抱いているが、彼が練習しているジョークは空回りし、場数も踏めない。やがて小さな舞台(スタンダップコメディの場)で初挑戦するものの、その笑いは制御不能の発作であり、客たちは嘲笑や困惑しか返さない。さらに、それをテレビ番組の人気司会者マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロが演じる)に映像で取り上げられ、“不気味な笑い者”として番組で晒される――この屈辱はアーサーにとって“社会全体から見下された”という感覚を決定的にする。
ヒーローズ・ジャーニーで言う“冒険拒否”や“世間の嘲り”は、主人公がいったん自信を喪失したり戸惑ったりするステップだ。しかし、アーサーにはもはや“拒否する余地”がない。コメディアンとしての成功が唯一の希望だったが、それさえ世間から潰されてしまう。そこで彼が次に取る行動は“絶望からの転化”に近い。つまり、前向きな決意ではなく“どうせなら笑い者のまま社会に反撃する”という逆転衝動へ向かっていくわけだ。
2-3. 地下鉄の殺人:初めての“暴力と解放”
物語を大きく変容させる事件として、アーサーが地下鉄車内で3人のウェイン社の社員を射殺する場面がある。彼らは泥酔状態で女性に絡み、アーサーを嘲笑し暴行を加えてくる。突発的な恐怖の中でアーサーは所持していた拳銃を発砲し、最初の2人を自己防衛的に撃つが、最後の1人は逃げるところを執拗に追いかけて射殺する。
この瞬間、アーサーは“社会的道徳”を大きく逸脱してしまう。通常のヒーロー映画なら主人公が“正当防衛”として敵を倒す描写があるかもしれないが、『ジョーカー』の場合、その線引きは完全に曖昧だ。初弾は正当防衛に見えても、最後に相手を追撃して撃ち殺した行為は復讐や怒りが混じっている。ここに彼の“社会からの嘲笑に対する反撃”という暗い衝動が具現化しているのだ。
この地下鉄の殺人事件はメディアで報じられ、犯人は“ピエロの格好をしていた男”とされる。アーサー自身は犯人であることをひた隠しにするが、ここでゴッサムの貧困層や若者は“格差社会を嘲るエリートたち”が殺されたことを痛烈な“象徴”と見なし、次第に“クラウン(ピエロ)”が反体制や反ウェイン的な運動シンボルになっていく。アーサーにとって想定外の方向だが、これが実質的に彼の“冒険(破滅の道)”の始動点となる。
3. 仲間の不在と“誤った導師”:暴走を後押しする要素
3-1. メンター不在:無力なカウンセラーと崩壊する福祉
ヒーローズ・ジャーニーには“導師(メンター)の存在”が定石として挙げられるが、アーサーの世界には明確に彼を導く存在がいない。最初に登場するカウンセラーは公的制度の一環としてアーサーの相談に乗っているだけで、彼女自身も予算カットの問題でどうにもできない。アーサーの苦しみに十分に共感する余裕もなければ、社会を変える力も持たない。結果としてアーサーは“助けを求める先がすべてシャットダウンされる”という極限状況に陥ってしまう。
このあたりは『タクシードライバー』におけるトラヴィスが“ウィザード”と呼ばれる同僚に相談しても核心的アドバイスを得られなかった状況と似ている。つまりアンチ・ヒーロージャーニーでは、メンターが不在もしくは無力であり、主人公は孤立を深めながら独自の狂気を高めていく。アーサーは“本当の導き”を得られないどころか、精神科医療にも見放される結果となるのだ。
3-2. 偽りのロマンス:隣人女性ソフィーとの関係
物語中盤、アーサーは同じアパートに住むシングルマザーのソフィーと親しげに会話するようになる。彼女がアーサーのスタンドアップに来てくれたり、外出に同行してくれたりするシーンがちらほら挟まれるが、後にそれはアーサーの妄想であったと判明する。実際にはソフィーはアーサーの本性や生活を何ひとつ知らない。ただエレベーターで会釈を交わした程度の他人であり、親しい関係はすべてアーサーの頭の中で都合良く作り上げられた幻想だったのだ。
普通の“ヒーロー”なら“ラブ・インタレスト”との関係が成長や癒しにつながることもあるが、この映画ではそれが完全に“偽り”として描かれる。観客はアーサーが心底“つながり”を求めているにもかかわらず、現実には誰一人として彼を理解していないことを知る。彼はメンターだけでなくパートナーすら得られない。ここにアーサーの孤立感は極まっていく。
3-3. 母の秘密:救い手だと信じた“トーマス・ウェイン”の失墜
母ペニーがしきりに「トーマス・ウェインは私たちを救ってくれる」と言い聞かせていたため、アーサーは半ば盲信的にウェイン邸へ赴き、若きブルース(後のバットマン)に会おうとする。だが執事のアルフレッドに追い返され、さらにトーマス本人にも拒絶される。そのうえペニーの入院後、アーサーは“自分はウェインの隠し子ではないか”と疑いつつ、実際はペニーの妄想であり、彼女は幼少時代のアーサーを虐待していた可能性があると知る。
ヒーローが“大きな権力者”や“王”と血縁がある展開は、神話的構造における“高貴さの発見”として描かれることもある。しかし『ジョーカー』では、その可能性が呆気なく砕かれたうえ、母親の抱える闇まで暴かれる。アーサーは自分のルーツが救済とは無縁であることを知り、社会の上層部への尊敬も失ってしまう。これにより“正しき導師”となるはずだったウェイン家の名声すら崩壊し、アーサーは誰も信じられなくなる。結果的に、これは彼を“社会への復讐”にさらに駆り立てる材料となるのだ。
4. 試練のエスカレート:悪意に満ちたゴッサムでの受難
4-1. 母との決別・終焉
大きな転機として、アーサーが病院の母を自らの手で殺してしまうシーンが挙げられる。ペニーはアーサーにとって唯一の家族だったが、同時に彼に虐待のトラウマを負わせた存在でもある。彼女の幻想的な言葉にずっと縛られていたアーサーは、ついにその洗脳から解放されるかのように枕で母の息を止める。この行為は道徳的には絶対に許されないが、アーサーの内部では“長年の支配や嘘、虐待への決算”と感じられたのだろう。
通常、ヒーローズ・ジャーニーで親との別離や師の死は“主人公の自立”を象徴するが、ここでは“暴力と断絶”による極端な自立(という名の破滅)である。ヒーローであれば親の死を乗り越えて高い使命に目覚めるかもしれないが、アーサーの場合は“母親を殺す”という道徳崩壊の形でしかそれを果たせない。こうして彼は血縁や愛情すらも断ち切り、社会的に孤立しきった状態に陥る。
4-2. “ピエロデモ”の拡大:社会が“クラウンマスク”を祭り上げる
地下鉄での殺人事件をきっかけに、格差や腐敗に憤るゴッサムの貧困層は“ピエロマスク”を街でかぶり、抗議デモを行うようになる。貧しき者たちが“俺たちは道化だ”“富裕層は我々を見下している”と声を上げ、路上で暴動や略奪を繰り返す。アーサー個人は意図せずに“革命の象徴”となり、その騒乱はさらに拡大していく。
ヒーローズ・ジャーニーでは、主人公が“仲間”を得て社会へ影響を及ぼす段階が存在する。たとえば冒険の最中に共感者が増え、最終的に主人公の行動が街や国を救う展開だ。しかしここでのアーサーは真逆に近い。彼は意図せず“反社会的暴力”の旗印に祀り上げられ、街は混乱の渦に陥っていく。アンチ・ヒーロージャーニーとしては、主人公が“社会破壊”を助長する象徴になることで、自身も一種の快感を得ていく。アーサーは“自分が注目されている”という歪んだ承認欲求が満たされる様子を感じ取り、段々と“自分らしさ”を解き放つように振る舞うようになる。
5. 最大の試練への接近:マレー・フランクリン・ショー出演
5-1. テレビに呼ばれる“嘲笑の対象”として
映画のクライマックスへ向けて重要なのは、人気番組の司会者マレー・フランクリンからの出演オファーである。彼は以前アーサーのコメディ映像を番組で揶揄する形で流していた張本人。アーサーが“奇妙な笑いを連発する素人芸人”としてSNSやメディアで注目を浴びつつあったこともあり、番組側は“笑い者”として再度客寄せ的に彼を呼びたいのだ。
ヒーローズ・ジャーニーで言う“最も危険な場所への接近”とは、主人公が強敵や極限の状況と対峙する局面だ。『ジョーカー』ではマレーのショーがこの局面を象徴する。テレビの生放送で全国的な視聴者の前に立つという大舞台は、アーサーにとって“最後の審判”的空間でもある。そこに至る道程でアーサーは化粧をし、自分が選んだスーツを着て“ジョーカー”としての姿を固めていく。これまで陰気にうつむいていた男が、まるで“本来の自分”を見出したかのように堂々と踊り、笑う様子は不気味でありながら、ある種の解放感を伴う。
5-2. “死”を覚悟した告白と開き直り
ショー本番前、化粧室でアーサーは元同僚たちとトラブルを起こし、ハサミで惨殺する事件に発展する。そこにはもはや“殺人”への躊躇がなく、彼に恩がある小人症の同僚だけは見逃すという、まるで自分ルールの裁きのような暴挙を行う。ここまででアーサーの“人間性”は大きく崩壊し、“自分が正しいと思う相手だけを生かし、あとは殺してもいい”という非常に危険な思考に到達している。
一方、テレビ局に向かう際には、すでに暴動化した街の人々がピエロメイクで暴れ回っている。アーサーはパトカーのサイレンや群衆の叫びを横目に、半ば“死をも辞さない覚悟”でショーに臨む姿を見せる。多くのヒーロー物語で主人公は“最大の危機に直面しながらも希望を抱く”が、アーサーの場合は“すべてを破壊するかのような自殺的突撃”という性格を帯びている。ここでは、“死と再生”という神話的モチーフが、完全な狂気として表現されるわけだ。
6. クライマックス:生放送での殺害と“ジョーカー”誕生
6-1. マレーとの対峙:全世界への告白
スタジオのソファーに座ったアーサーは、“ジョーカー”という名で紹介され、奇妙なテンションで会話を繰り広げる。そこで彼は事件の真相や社会への恨みを吐露し、さらには自身が地下鉄殺人の犯人であることすらほのめかす。マレーや観客は戸惑い、一部は笑いながら彼を茶化す。だがアーサーは段々と殺意をむき出しにし、ついにマレーを拳銃で頭部を撃ち抜いて殺害。生放送中の惨劇としてテレビに映し出される。
通常、ヒーローにおけるクライマックスは“世界を救うための決戦”などが期待されるが、本作ではそれが“世界を愕然とさせる大量殺人予告”と“テレビ司会者への衝動的殺害”に置き換えられている。マレーは言ってみれば、アーサーを嘲笑し続けた“社会の縮図”とも言える人物。公共の電波で“笑い者にして良いコンテンツ”として扱った末に、リベンジの対象となった。ここに、アーサーの中で積み重なった恨みや嘲笑への復讐衝動が最大限に爆発し、“社会に仮面を剥がさせる”という負のカタルシスが生じる。
6-2. 警察による逮捕と群衆の熱狂
マレーを撃ったアーサーはスタジオ内で逮捕され、パトカーに乗せられて連行される。しかし、その道中でピエロマスクをかぶった群衆が暴動を起こし、救急車がパトカーに突っ込むことで事故を引き起こす。気絶していたアーサーは血まみれの状態で車外に引きずり出され、暴徒化した人々の前で意識を取り戻す。そこでは“ジョーカー”をリーダーやアイコンのように崇める者たちが、彼を歓声と拍手で迎えている。
まさにこれは“死と再生”の儀式のように演出される。アーサーはパトカー事故で一度“死”に近い状態になったが、暴徒たちの支持のもと再び立ち上がり、自分の血で口角を吊り上げるように“笑顔”を作り、観衆から喝采を浴びる。ヒーローズ・ジャーニーなら“再生”は光とともに行われるが、ここでは“破壊の渦中”で歓呼を受ける暗黒の再生だ。アーサーはここで完全に“ジョーカー”として誕生し、“社会の否定者”として喝采を集める存在になる。
7. 帰還:アーサーはどこへ帰るのか
7-1. エピローグ:精神病棟での意味深なラスト
映画のラストシーンでは、アーサーがアーカム州立病院のような精神病棟に収容され、カウンセラーと会話する場面が描かれる。そこから先は映像が曖昧になり、アーサーが廊下を逃げ回りながら足跡に血を残しているカットで終了する。実際に何が起こったのか、彼はまた誰かを殺したのか、それとも想像上の出来事なのか。監督自身が明確に解釈を提示しておらず、観客は様々に議論している。
通常のヒーローズ・ジャーニーでは、主人公が“家”や“社会”へ帰還し、得た宝や教訓を分かち合う。しかし本作では、“帰還”が精神病棟に象徴される。彼が得た“宝”とは何か――それは“社会的名声”や“暴徒の支持”かもしれないが、その結果、彼は法や道徳から大きく逸脱していて、どこにも真の安住はない。いわば“帰還”は成し遂げたものの、そこは“破滅後の収容先”という救いのない場所である。
7-2. 社会との乖離:アンチ・ヒーローとしての“続き”
このラストをどう受け止めるかは解釈次第だが、アーサーは明らかに“普通の人間”に戻ることはない。精神病棟内であれ、あるいはゴッサムの暴徒たちの頂点であれ、“ジョーカー”として存在し続ける姿が暗示される。従来のヒーローズ・ジャーニーなら社会と和解したり平和を取り戻したりするが、本作では“社会が燃え上がる混乱”と“アーサーの内面崩壊”が同時に進行し、“回復”には程遠い状況だ。
この徹底した“帰還の無意味さ”あるいは“破滅的形での帰還”こそが、本作をアンチ・ヒーロージャーニーたらしめる大きな要因と言える。彼は主観的には“解放”されたかもしれないが、社会的には“狂乱”を招いただけの危険人物であり、彼自身も決して救われていない――これが本作の底知れぬ虚無感へとつながっている。
8. 『ジョーカー』に見るアンチ・ヒーロー構造の特徴
ここまで詳細に振り返ってみると、『ジョーカー』が“アンチ・ヒーロージャーニー”として備えている特徴は以下のようにまとめられる。
8-1. 日常世界がすでに破綻している
アーサーの出発点は、経済的にも精神的にも追い込まれ、他者からの嘲笑と暴力を常に受けている。通常のヒーローが“安定しているようで内面に渇望を抱えた状態”から冒険へ向かうのに対し、アンチ・ヒーローのアーサーは“最初から崖っぷち”にいる。これは観客に“どうしようもない絶望”を突きつけると同時に、“堕ちていく先はどこなのか”という不吉な興味を駆り立てる。
8-2. メンターも仲間もいない孤立
アーサーはカウンセラーや隣人女性ソフィー、あるいは母親や富裕層のトーマス・ウェインなど、様々な人物に救いを求めるが、誰も彼を真に導いてはくれない。その結果、彼の“内なる声”だけが増幅し、暴力へ転じる道を選んでしまう。通常のヒーローは“導師”や“協力者”と出会い、試練を乗り越える支えを得るが、アーサーにはそれがないどころか、幻だったり裏切りだったりという形で裏目に出る。こうした“完全孤立”はアンチ・ヒーロージャーニーの典型的要素だ。
8-3. 使命や正義が“独善”の域を超えない
アーサーの行動はあくまで“社会への復讐”や“自分を嘲笑する連中への抵抗”であって、広義の正義を実現しようとはしていない。結果的に格差や富裕層の傲慢を糾弾する運動が街に広がるが、アーサー本人はそれを“革命”として主導しているわけではなく、ただ“利用”されているに近い。つまり、ヒーローに不可欠な“公的な善意”が皆無であり、すべてが“個人的な怒り”に還元される点でアンチ・ヒーロー的だ。
8-4. “死と再生”が社会への破壊として実現
本作では、終盤のパトカー事故がアーサーの“死”、そこからの復活が“再生”を象徴するかのように描かれる。しかしながら、その“再生”は社会を混乱に陥れる犯罪者としての覚醒だ。通常のヒーローは死の淵を乗り越えることで高次の使命に目覚め、周囲を救う存在に成長するのに対し、アーサーの再生は周囲をさらなる地獄に突き落とす行為につながる。ここに神話的モチーフの“反転”がある。
8-5. 帰還は“収容所”や“精神病棟”という監獄
最後にアーサーが到達した先は、救済でも王国でもなく、精神病棟らしき白い部屋だ。これは“元いた場所”に戻るのでも“新天地を得る”のでもなく、“何も得られないまま身柄を拘束される”という結末だ。アンチ・ヒーローの帰還がいかに虚しく救われないかを示す典型だろう。
9. 社会的背景とテーマ:『タクシードライバー』との比較
『ジョーカー』が公開当初からマーティン・スコセッシの『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』との類似を指摘されたのは、やはり“社会から疎外された男が狂気に陥る”モチーフが共通しているためだ。スコセッシ作品で描かれた1970~80年代のニューヨークと、本作でのゴッサム・シティには、“貧富の格差”“失業者やホームレスの増加”“治安の悪化”“政治への不信”が色濃く投影されている。
トラヴィス・ビックル(『タクシードライバー』)もまた、社会から見放された形で夜の街をタクシーで走り続け、性的退廃や暴力を目撃し、自ら拳銃を買い込んで“街を掃除する”という歪んだ正義感に取り憑かれていく。『ジョーカー』のアーサーもまた、“街を掃除する”という発想こそ明示しないが、“嘲笑する者を全員斃してやる”という発想に走り、“暴力=解放”を実行していく点で共通点が多い。両者ともに“英雄の旅”の形を歪ませ、社会への絶望や自己の妄想を正義として振りかざすアンチ・ヒーローだ。
大きな違いとしては、『ジョーカー』では主人公が“貧困や精神疾患”により公的支援が必要な立場であるのに対し、支援の枠組みが次々と打ち切られていく“冷酷な社会”が前面化している点だ。これにより観客は“彼の暴力は決して許されないが、社会もまた責任を負うのではないか”と感じやすい仕掛けがある。『タクシードライバー』でもベトナム帰還兵がPTSDなどのトラウマを抱えている図式はあるが、『ジョーカー』はさらに福祉の側面が強調されており、“制度が断絶した末に生じる惨劇”としての色彩が濃い。
10. 物語作りへの示唆:アンチ・ヒーローを描く際の着眼点
もし創作の上でアンチ・ヒーロージャーニーを取り入れたい場合、『ジョーカー』から得られる示唆は大きい。以下にまとめてみる。
- スタート地点を“既に絶望的”に設定する
- いわゆる“満たされないが安定した日常”ではなく、“一日でも崩れたら犯罪や死につながる”ような極限状態から始めると、アンチ・ヒーローの破綻に説得力が増す。
- 仲間・導師不在を徹底させる
- “頼れる人物”が誰もいない環境や、いたとしても無力である状況を用意することで、主人公の孤立が深まり、その内面の声が暴走しやすくなる。
- 正義の定義を曖昧にし、私怨や妄想を主体にする
- 本人は“自分なりの理由”を持って暴力や犯罪に手を染めるが、それが社会的に認められる正義とはまったく異なる。観客には“本人にとっての正義”が狂っていることを示すことで、強烈なインパクトを与える。
- “死と再生”を破滅的快感として描く
- 主人公が一度“死んだ”ように見えつつ、反社会的存在として“再生”する展開は神話的モチーフを反転させる効果が大きい。観客は通常なら感動する場面で、恐怖や嫌悪感を覚える。
- 帰還は“社会にとっての破局”を招き、主人公も救われない
- 結末で主人公が“英雄的な地位”を得るのではなく、世界が混乱したり、主人公自身がさらなる孤立や収容に追い込まれたりする形にすることで、アンチ・ヒーローの旅の“虚無”が強調される。
『ジョーカー』が映し出す“アンチ・ヒーローの業”
トッド・フィリップスの『ジョーカー』は、DCコミックスの有名ヴィランをリアルでシリアスな社会ドラマに落とし込んだ野心作であると同時に、“アンチ・ヒーロージャーニー”の教科書的要素を多分に備えている。アーサー・フレックという孤独で不安定な男の歪んだ旅路は、通常のヒーローズ・ジャーニーがもたらす“成長や希望”をことごとく転倒させ、“絶望や暴力”へと置き換えているのだ。
冒頭で示された“彼が日常的に直面する嘲笑や暴力”は、観客に強いシンパシーを抱かせる部分もあるかもしれない。なぜなら現代社会にも“孤立する弱者”“病気や障害を抱える人々への冷遇”“格差の拡大”が実在し、『ジョーカー』のゴッサムは必ずしも遠い架空の街ではない。だが同時に、この映画は“だから彼の殺人は正当化される”とは決して言っておらず、むしろ“社会全体が狂気を増幅させていく”恐怖を描き、観る者に不安と居心地の悪さを突きつける。
ジョーカーというキャラクターはバットマン神話において“純粋悪”の象徴とされるが、本作ではアーサー個人の事情や社会背景を丹念に描くことで、“どうしてここまで追い詰められてしまったのか”を詳細に説明する。しかしその結果、“彼が生み出す混乱と惨劇が正しいかどうか”という疑問は一層複雑に絡まる。これはアンチ・ヒーロー物語が持つ最大のテーマ――“社会が産んだ怪物か、それとも個人が勝手に狂っただけなのか”――の提示でもある。
最終的に、アーサー・フレックは“ジョーカー”として自分を確立し、暴動のリーダーのようなアイコンに祭り上げられる。しかし彼にとってそれは、栄光の達成でも、幸福の獲得でもない。むしろ“誰にも愛されず、自分も愛せない空虚”を抱えたまま、笑いと暴力で社会を破壊する“道化師”へと堕ち続けるしかない運命だ。この“アンチ・ヒーローの業(カルマ)”とも言うべき状態は、観客に“もしも社会や周囲が少しだけ彼を支えていたら、別の人生はあり得たのでは?”というやりきれない思考を呼び起こす。そこにこそ、『ジョーカー』が突きつける最大の問いがあるのではないだろうか。
以上のように、本作『ジョーカー』は神話的構造――いわゆる“旅のステップ”を踏襲しながら、すべてを歪ませ、闇へと突き進むアンチ・ヒーローの典型として成立している。日常世界の崩壊、メンター不在、周囲からの拒絶、暴力を“解放”とする死と再生、そして救済のない帰還――どの段階も暗い迷宮を巡るように繋がり、最終的には“社会もろとも破滅に向かう”結末を迎える。その構造は数多くの議論を巻き起こし、現代の観客の胸に“不安と衝撃”を残す強力なパワーを持ち続けていると言えよう。
Amazonプライムビデオ『ジョーカー』