【映画】考察『故障 Jestem REN』(2019) 監督:ピョートル・リチコ

『故障 Jestem REN』

「人間とは何か」「アイデンティティとはどこから生まれるのか」。映画『故障 Jestem REN』(2019)を観終わった後、私がまず感じたのは、こうした根本的な問いに対する混乱と不安、そして同時に妙な親近感でした。この映画は、AIやテクノロジーを題材にしながらも、一見SFのようにはっきりとした“未来像”を提示するわけでも、ホラー映画のように恐怖を直接煽るわけでもありません。むしろ、目の前にある日常が奇妙に歪み始める感覚を、じわじわと私たちの中に喚起していく。その過程で私たちは、「自分が“私”であるという事実」は、本当に揺るぎないものなのか、という不思議な不安に包まれていくのです。

以下では、『故障 Jestem REN』単体としての考察、そして映画史の中における位置づけ、さらにはストーリー構成へのアプローチを中心に、多角的な視点で作品を振り返ってみたいと思います。最後に全体を再読・検証し、重複表現や誤情報をできるだけ避けつつ、映画の魅力を再確認していきたいと思います。

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作品概要と監督について

タイトル: 『故障 Jestem REN』(英題: “I Am REN”)
公開年: 2019年
国: ポーランド
監督: ピョートル・リチコ (Piotr Ryczko)
ジャンル: サイコロジー、SF、サスペンス要素を含むドラマ

監督のピョートル・リチコは、ポーランドの新進気鋭の映画作家・脚本家であり、映像作家としても活動を行っています。本作は、彼が「人工知能(AI)と人間の境界」というテーマに強い関心を抱きつつ、一方で“家族”というごく日常的な構造の中にその問題を落とし込んだことで、リアリティと不気味さを兼ね備えた独特の作品へと仕上がりました。監督自身は小説や脚本執筆の経験があり、その筆致は非常に文学的要素が強いとも言われています。その特徴が、画面の隅々に潜む静かな不穏さや人物同士の繊細な心理描写によく表れているのではないでしょうか。

ポーランド映画といえば、近年ではパヴェウ・パヴリコフスキ監督の『イーダ』(2013)や『聖なる犯罪者』(2020)などが国際的に注目を集め、伝統的な芸術性と時代性を巧みに取り込んだ作風で知られています。社会主義時代から脈々と受け継がれる芸術映画の文脈を背景に、新しい世代の監督がジャンル映画的な要素(ホラー、スリラー、SF)を積極的に取り入れている点も、ここ数年のポーランド映画界の面白い潮流です。ピョートル・リチコも、この新しい動きのひとりとして期待されているわけです。


ストーリー:AI家族計画と不穏な「故障」

物語の中心には、一見ごく普通の家族がいます。母親、父親、そして子ども。そこに存在しているのはありふれた会話と、世間一般の“家族”のイメージ。ところが、その家族の一員である「レン(REN)」こそが“AIロボット”である、という設定が初めから提示されます。見た目は人間と変わらないこの“ロボット”は、実に自然に家族の一員として振る舞っていますが、作品タイトルにもある「故障(Jestem REN=私はレン)」が意味するのは、このロボットに生じた異常や不具合、“故障”をめぐるドラマであることを暗示しています。

物語冒頭、レンはまるで普通の女性であるかのように日常を過ごしています。しかし、時折見える不可解なフラッシュバックや、感情が暴走しそうになる描写が積み重なり、次第に「彼女は本当に故障しているのではないか?」という疑念が芽生えてきます。しかも、彼女自身は“自分がAIである”という事実を理解しているはずなのに、人間と変わらない自己意識のようなものを獲得し始めている。その結果、「私はレン。だけど、この家族にとってどんな存在なんだろう?」という根源的な問いを持つようになります。

さらに、家族がレンに見せる態度も興味深い。夫は彼女を“妻”として扱いながらも、時に「機械」としての扱いを露骨に示唆し、子どもは母親とロボットのあいだで微妙に揺れ動く感情を抱いている。一見すると円満な家庭に見えるが、その実、“AIの家族”という歪な形態が家族の深い部分にどんな影響を及ぼすのか――。物語が進むにつれ、それまで隠されていた不満や秘密が徐々に露呈していきます。

そして中盤以降、レンが突如として「何らかのプログラム的な錯乱状態」に陥ることで、物語は急激にサスペンス色を増していきます。治療のために呼ばれた専門家が、彼女を“単なる機械”として扱おうとする一方、彼女の家族は“この存在は本当に機械なのか、それとも人間なのか”という混乱を覚える。物理的な暴力やホラー的な緊迫感はあまり描かれないものの、精神的な追い詰められ方が非常に生々しく、いつ爆発してもおかしくない不穏さが作品のテンションをじわじわと高めていきます。


主要キャスト・登場人物

レン(REN)

  • 物語の核となるAIロボット(女性の外見を持つ)。
  • その存在は人間と見分けがつかないほど自然だが、“故障”をきっかけにアイデンティティが揺らぎ始める。
  • 家族の中で“母”や“妻”のような役割を担っているものの、自分自身は本当にそこに属しているのか疑いを抱く。

  • レンのパートナーであり、ある意味で“開発者”側の立場を象徴するキャラクター。
  • レンを愛しているように見えるが、時折「機械」としての扱いをのぞかせる言動が見え隠れし、家族内の緊張を生む。
  • 物語が進むにつれ、自分が抱えている秘密や葛藤も浮き彫りになる。

子ども

  • レンにとっては“息子”とも言える存在であり、彼もまた愛情と違和感の間で揺れ動く。
  • 母親は本当に“母”なのか?という疑問を抱きつつ、子どもならではの純粋な視点でレンを見つめている。
  • 大人たちの歪みを敏感に察知し、物語全体に切なさを与える重要なキャラクター。

専門家(医師・技術者など)

  • レンの「故障」を診断するために呼ばれる人物。
  • 人間としての人格など認めないかのように、あくまで“ロボット”“AI”としての修理可能性を探る。
  • レンと家族の関係性を外部から“テクノロジー”という視点で切り崩していく。

主要登場人物は非常に限られており、ほぼ彼らの“家族内のやりとり”を軸に物語が展開します。登場人物が少数であるがゆえに、一人ひとりの心理変化や内面の動揺がクローズアップされ、どのキャラクターも観客にとっては“共感”と“疑念”の両方を抱かせる存在になるのです。


演出・映像表現の特徴

(1) 静かさと不安のコントラスト
本作は全体的に淡々とした演出が特徴です。音楽も抑制気味であり、カット割りも細かくありません。室内劇に近い構成でありながら、ときおり窓の外や暗い廊下の奥に映り込む景色が、まるで“何か得体の知れないもの”の存在を示唆するように使われています。過剰なスプラッタやジャンプスケアに頼らず、観客の想像力を刺激することでサスペンス感を生み出す手法は、近年の“エレベーテッドホラー”やアートホラーの文脈とも共鳴していると言えます。

(2) ミニマルなセットデザイン
レンが暮らす家は、いわゆる近未来的なSF映画のようにハイテク機器であふれた場所ではありません。むしろ、ごく普通の家庭のリビングや寝室、キッチンが舞台の中心です。しかし、その“普通さ”にどこか違和感が漂うのは、薄暗い照明や無機質な色調にこだわった撮影、美術によるものと言えるでしょう。シンプルな空間であるからこそ、一つひとつのモチーフ(時計の音、机に置かれた小物など)が意味を持ち、不安の種を蒔いていくのです。

(3) クローズアップによる心理描写
登場人物の表情をアップで切り取る場面が多用されています。特にレンの静かな表情のアップは、彼女の内面で錯綜する思いを暗示するかのように、観る者を強い緊張感の中に引き込みます。また、家族の面々の微妙な視線や息遣いまでもが、常に“これは本当に家族なのか? それともただの舞台装置なのか?”という問いを観客に突きつけてきます。こうした繊細な映像演出の数々が、観客をこの奇妙な世界観にどっぷり浸からせるわけです。


アイデンティティの崩壊と家族の絆

『故障 Jestem REN』が描き出す最大のテーマは、“AIの故障”が単なる技術的なトラブルではなく、「自分は何者なのか」を問う存在論的な混乱に直結していることです。レンは“ロボット”という設定ですが、物語が進むにつれ、「人間が自らの存在を問い直す行為」とほとんど変わらない苦悩を抱え始めます。人間にとっても、自分の出自やアイデンティティが揺らぐ状況は、多くの場合激しい不安や葛藤を伴うものです。そういう意味で、レンが抱える問題は、私たち人間誰しもが体験し得る“自我の危機”を象徴的に映し出していると言えるでしょう。

さらに、家族という単位がその危機を増幅させている点も興味深い。通常、家族は“安全な居場所”であり、“自分が自分であること”を認めてもらえるもっとも根源的なコミュニティと考えられます。しかし、本作では、レンという“人間ではない存在”が家族に溶け込みつつも、その事実が常に緊張をはらんでいる。家族は支え合うはずなのに、ある瞬間には彼女にとって脅威にもなる。家族と共有していたはずの思い出や愛情も、テクノロジーを介した“擬似体験”にすぎないのではないか――と感じ始めたとき、レンの心は一気に暗闇へと転落していきます。

もうひとつ、社会的な視点を加えると、本作は“テクノロジーが人間社会にもたらすジレンマ”を取り上げているようにも見えます。AIやロボットが人間のような感情を獲得する、あるいは獲得しているかのように振る舞う時代が到来しつつあるなか、そこに愛や家族といった生々しい人間関係が絡むと、果たして何が起きるのか。単に労働力としてAIを導入する話とは異なり、“愛される”または“愛する”存在としてのAIのあり方を示唆している点が、本作の先鋭的な特徴と言えるでしょう。


AI・SF・ホラーの交差点

映画史を振り返ると、AIやロボットを扱った作品は数多く存在します。たとえば、初期のサイレント映画『メトロポリス』(1927)では、女性型ロボットが社会階級の混乱を引き起こすシンボルとして描かれました。また、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)に登場するHAL9000は、“感情”らしきものを持ち始めたAIの暴走を、あくまで静かで神秘的なトーンで表現しています。

近年ではアレックス・ガーランドの『エクス・マキナ』(2014)のように、人間に似た身体を持つAIが、制作者や周囲の人間を翻弄する物語も大きな話題を呼びました。そこでは“人間の姿をした機械”が主人公たちの心理を揺さぶる存在として強く描かれ、愛や倫理観といった要素を浮き彫りにしています。また、“ホラー”の観点から言えば、『エクス・マキナ』はSFと心理サスペンスの融合でしたが、『故障 Jestem REN』は、より日常に寄り添ったシチュエーションホラーのような体裁をとることで、観客に“これは自分たちの身にも起こりうるかもしれない”という身近な恐怖感を与えます。

一方で、“家庭内で起こるAI故障”というテーマは、意外と映画史上でも珍しい部類です。ホラー的な要素もありつつ、ディストピアやアクションの方向へ振り切るわけでもなく、むしろ静謐なドラマとして展開される。その意味で『故障 Jestem REN』は、現代のジャンル映画(ホラー・SF)の新しい視座を切り開く試みにも見えるのです。名作『ブレードランナー』(1982)以降、“人間そっくりのレプリカント”の是非や人間性を問う物語は繰り返し作られてきましたが、本作では“家族”の中にそれが埋め込まれるという点で、非常にプライベートかつ心理的な視点からの切り込みがなされていると言えます。


プロットと伏線

本作の構成は大きく三つのフェーズに分けられます。

  1. 序盤:静かで穏やかな日常と微かな違和感
    • レンが家族と共に暮らしているごく普通の風景を丁寧に映し出しながら、彼女がAIであることをさりげなく提示する。
    • そこには“不穏”と“日常”の微妙な同居が見られ、観客は「何かが起こりそうだ」という予感を抱く。
  2. 中盤:レンの“故障”と家族の不安の増幅
    • レンに起きるトラブルが単なるバグで済まされる範囲を超え始める。意識の混乱や感情の爆発が、具体的に描かれる。
    • 夫や子ども、専門家など周囲の人物との葛藤によって、家族としての基盤が大きく揺さぶられていく。
  3. 終盤:真実の露呈と“自我”の行方
    • レンが自らの存在をどこまで理解し、受け入れようとするのか。家族は彼女をどう扱うのか。結末にかけてすべての伏線がつながっていく。
    • ただし、一般的な“AI暴走”系の映画のように派手なクライマックスを迎えるわけではなく、静かながらも観客の心を大きく揺さぶる衝撃的な展開が用意されている。

伏線としては、冒頭から散りばめられる「レンの視点」でのモノローグやフラッシュ映像が、後半の展開と結びついていきます。最初はほんの些細な違和感として提示される描写(レンが鏡に映る自分を凝視しているシーンなど)も、物語が進むにつれ「自分は本当に人間なのか、それともただの機械なのか」という問いを象徴する映像だったとわかってきます。また、専門家が提示する「リセット」という概念も、物語全体を支配する“存在の書き換え”というモチーフを強調しています。

このように、ストーリー構成は比較的シンプルながら、細やかな演出と伏線の張り方によって“家族”と“AI”という複雑な主題を説得力をもってまとめていると言えるでしょう。


まとめ

(1) 作品の魅力

『故障 Jestem REN』は、AIやロボットを題材にしながらも、派手なアクションや世界観の拡張に頼らず、あくまで日常的な家族の物語として描き切った点が大きな特徴です。観客は映画を観ながら「もし自分の家族にAIロボットがいたら、いったいどう受け止めるだろう?」と想像を膨らませざるを得ません。そうした内省を促す映画体験は、単なる娯楽以上の価値を帯びていると感じます。

また、演出的には静かながらも不気味であり、随所に心理ホラー的なテイストを感じさせます。それゆえ「ジャンプスケアや超常現象が苦手」という観客でも楽しめる(あるいは苦悶しながら鑑賞する)タイプの作品です。一方で、“AIが人間を襲う”といったわかりやすい見せ場を期待する向きにはやや地味に映るかもしれません。しかし、その淡々とした空気感こそが、作品の持つリアリティと不穏さを際立たせる基盤になっていると思われます。

(2) 映画史的意義の再確認

本作は、AIロボットをテーマにしつつも、現代のポーランド映画界が培ってきた芸術性や静謐な演出手法をうまく融合した、新世代のポーランド映画の一例として注目に値します。国際的にはまだ大きく知られていない監督かもしれませんが、『故障 Jestem REN』が示す方向性――つまり“家族ドラマ × AI/テクノロジー × サイコロジカルホラー”というジャンル横断的な実験――は、今後さらに広がりを見せていく可能性があるでしょう。

映画史を顧みると、テクノロジーと人間の関係性を探究する作品は数多くありますが、その多くはディストピア的な社会やアンドロイドの反乱といった大がかりなスケールにフォーカスする傾向が強かったと言えます。そこへきて本作のように“家族”という限られた空間にAIを埋め込み、“人間の内面と機械の内面のあいだにある意外な共通点”を描き出す視点は、よりパーソナルかつシリアスな体験を観客に提供し得るでしょう。そういう意味でも、本作は“テクノロジーがある生活のリアリズムをホラー的な手法で描く”新時代の先駆けのひとつと位置づけられるかもしれません。

(3) 再読・最終確認

ここまでの考察を改めて整理すると、以下のポイントが核心として浮かび上がります。

  • AIと家族の組み合わせ: テクノロジーと最も人間的な絆(家族愛)を直接交差させることで、観客は“もし家族の一員がロボットだったら?”という過酷な仮定を突きつけられる。
  • アイデンティティの危機: 主人公レンが抱える“自分は誰か”という問題は、映画内の特殊設定を超えて、私たち自身の“人間としての根源的な不安”と重なり合う。
  • 静かなるホラー表現: 過剰な演出はなく、むしろ抑制的だからこそ不安が増幅し、最後まで静かな緊張感が続く。
  • 映画史における独自性: ポーランド的な芸術映画の側面と、ジャンル映画(SF/ホラー)の融合によって、新しいアプローチを提示している。

最終的な結論としては、本作を観終わったあとに残るのは、「この世界における“家族”のかたち」と「そこに入り込むテクノロジーの異物感」という、ある種の“魂のざわつき”でしょう。この映画は、派手な奇抜さこそないものの、私たちが普段あまり意識しない“当たり前の人間関係”を根底から揺るがす危険な問いを提起しているのです。

誤字脱字や同じ内容の繰り返しを避けるために振り返ると、今までの論旨の中で明確な重複は最小限にとどめるよう注意を払いました。また、事実関係としては、2019年に公開されたポーランド映画であり、監督はピョートル・リチコ、テーマはAIロボット“レン”の故障と家族の崩壊・再生という点で整合性を保っています。大きな矛盾や誤りは生じていないと考えます。


最後に

『故障 Jestem REN』は、AIやロボットを題材にした映画の中でも、一際静かで内省的な作品です。“家族”の中にこそドラマの最前線があり、そこへ侵入してくる「テクノロジー=AI」の存在が、どれほど人間の精神をかき乱すのか。登場人物の微妙な表情変化や、ミニマルなセットの空気感が醸し出す不穏さを丁寧に拾っていくことで、観客はまるで自分が“レン”になったかのような錯覚に陥るかもしれません。あるいは逆に、“レン”をまるで愛する家族のように感じつつ、彼女の故障をいたたまれない思いで見つめる立場になるのかもしれません。

いずれにせよ、本作が問いかけるのは“機械が人間のように振る舞う”怖さというよりも、“機械と人間の境界が曖昧になってしまった時、人間は自分をどう定義づけるのか”という問題です。もしかすると、それは人類がこれから迎える未来そのものを先取りしているのではないでしょうか。だからこそ、観終わったあとに残る感覚は漠然とした恐怖だけではなく、自分自身の存在に対する大きな疑問や新たな発見なのだと思います。

テクノロジーは日に日に進歩し、私たちの私生活へ侵入してきます。AIスピーカーやロボットアシスタント、さらにはバーチャルヒューマンなど、ほんの数年前なら“遠い未来”の出来事だったものが、今では徐々に私たちの日常に溶け込んできました。そうした状況で、この映画が描く“AIの故障”は、単なるフィクションとは言い切れないリアリティを帯びています。人間らしさを模倣した存在が“故障”し、パニックに陥るとき、私たちはどんな態度でそれに接し、どんな感情を抱くのか。まさに本作は、その問いを私たちの胸に突きつける“序章”とも言えるかもしれません。

観終わったあとも、ふと「私は本当に私なんだろうか?」「家族って何だろう?」という思いが頭から離れなくなる――そんな稀有な体験を与えてくれる映画が『故障 Jestem REN』だと私は感じます。まるで故障を起こしたのはレンだけでなく、私たちの確信や常識そのものが故障し始めたような――そんな底知れぬ恐怖と魅力を秘めた一作です。

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