私は普段、定期的に配信をしているわけではありません。 いわゆる「配信者」ではなく、映画や映像を中心に活動している人間です。
ですが、ごくたまに、配信やライブトークを行うことがあります。 そんなとき、いつも心に置いていることがあります。
それは、「誰かの時間をもらう」ということの重みです。
時間は命そのもの
「配信を見てもらう」というのは、ただの娯楽ではありません。
それは、視聴者の“人生の一部”を、こちらに向けてもらう行為です。
たとえば、ある学生が、学校の課題に追われながらも夜の30分を私の配信に充ててくれたとします。あるいは、育児や家事に追われているお母さんが、子どもが寝たすきに、私の雑談配信を流してくれているかもしれません。仕事に疲れたサラリーマンが、帰宅後の30分を「ちょっと笑いたい」と思って私を選んでくれているかもしれない。
その時間は、もしかしたら寝ることにも使えたし、誰かとのLINEにも使えたし、動画を観る以外のことだって無数にあったはずです。それでも「私の配信」を選んでくれた。
このことの重みを、ちゃんと感じること。 これが、たまに配信をする立場であっても、とても大切な感覚だと私は思います。
命のかけらを預かるということ
人間にとって、時間は命そのものです。過ぎ去った時間は戻ってこない。今日のこの瞬間も、明日の朝も、1分1秒が「人生のかけら」です。
だからこそ、配信を観てもらうということは、相手の「命のかけら」を受け取るということでもあります。
この視点に立ったとき、配信という行為は、ただ喋る、ただゲームをやる、ただ盛り上がる──そういう“表層的なもの”だけではなくなってくるはずです。
「せっかく来てくれた人に、何か持って帰ってほしい」 「たった5分でも、楽しかったなと思ってもらいたい」 「この時間が、少しでもその人の明日につながれば」
そんな気持ちが、自分の言葉や振る舞いに自然とにじんでくる。
たまにしか配信しないとしても、それが視聴者に伝わったとき、配信は“誰かにとっての特別”になっていくのだと思います。
誰も来ない日もある。それでも伝えたい思い
「誰も来なかった」「コメントがなかった」 そんな日も、配信をするときには必ずあります。
でもそれも、「誰かが今、別のことに時間を使っている」ことの証明です。
私たちは常に、“選ばれない”という現実とも向き合わなければならない。 だけど、その中でも一人でも「今日はこの配信を見よう」と選んでくれる人がいたとしたら。
それはとてつもなく大きなことなのです。
大切にしている心構え
だから私は、たとえ年に数回しか配信しなかったとしても、毎回こう思っています。
「今日は、誰かの時間を、命の一部を、預かっている」
うまく話せない日もある。トラブルがある日もある。疲れていて、テンションが上がらないこともある。
それでもその“命の時間”に、ほんの少しでも応えたい。
それが、たまにしか配信しない私にとっても、変わらず大切にしている心構えです。
あなたの配信や発信を見に来てくれる人がいるなら、その人の人生に、きっとあなたは何かを届けている。
それは、想像以上にすごいことなのです。