「違和感」「気持ち悪さ」「美しさ」――映画『アナイアレイション -全滅領域-』を初めて観終わったとき、私が真っ先に抱いたのは、この三つの感情でした。SF、ホラー、ファンタジーの境界を曖昧に横断する不思議な世界観に身を浸した直後、まるで自分自身の身体が一時的に別の次元へ飛ばされたかのような感覚が残る。たとえスクリーンから目を逸らしても、視界の隅にはまだ“あの映像”が焼きついていて、頭の中には“あの音”が反響しているのです。奇妙に歪んだ自然の造形が映し出す「違和感」。人間や動物が次々と変容していく過程に覚える「気持ち悪さ」。そして、それらがいっそ神々しさすら感じさせる輝きや色彩を伴って描かれる「美しさ」。この三つがせめぎ合いながら、観客を未知の世界へ引きずり込む――それこそが『アナイアレイション -全滅領域-』の真骨頂と言えるでしょう。
【ストーリー】
秘密任務から生還した夫が危篤状態に。最愛の人を救うべく、生物学者のレナは政府が封鎖した地域へと足を踏み入れる。その異様な世界で、彼女は一体何を見たのか。
【キャスト】
レナ:ナタリー・ポートマン
ドクター・ヴェントレス:ジェニファー・ジェイソン・リー
アニャ:ジーナ・ロドリゲス
ジョシー・ラデック:テッサ・トンプソン
キャシー・シェパード:ツヴァ・ノヴォトニー
ケイン:オスカー・アイザック
【スタッフ】
■監督・脚本:アレックス・ガーランド (『エクス・マキナ』)
■原作:ジェフ・ヴァンダミア『全滅領域』(早川書房)
Contents
■ 世界を侵食する“シマー”と人間の境界
◇ 1. 概要と監督アレックス・ガーランドの作家性
『アナイアレイション -全滅領域-』は、2018年に公開されたアレックス・ガーランド監督の長編映画作品です。ジェフ・ヴァンダミアの小説『全滅領域』を原作としており、映像化の難易度が非常に高いと噂された作品でもあります。監督のガーランドはもともと脚本家・小説家としての経歴が長く、『ザ・ビーチ』(1996)で一躍注目を浴びた後、『28日後…』(2002)や『ジャッジ・ドレッド』(2012)などの脚本を手がけてきました。監督デビュー作『エクス・マキナ』(2014)では人工知能(AI)との境界を巡る哲学的なドラマを見せつけ、アカデミー賞視覚効果賞を獲得。続く本作『アナイアレイション』では、SF×ホラー×哲学という独自の融合路線をさらに先鋭化させ、“人間が未知の現象に直面したときに、どのような変容を遂げるか”という根源的テーマを深くえぐっています。
◇ 2. ストーリーの核:境界を喰らう“シマー”の謎
物語の舞台は、アメリカ沿岸部に出現した謎の領域“シマー(Shimmer)”。彗星の衝突をきっかけに発生したとされるこのエリアは、常識を超えた生態系を内包し、時間や物質の概念さえも歪めているように見えます。政府は“シマー”を調査するため、軍や科学者を次々と送り込むものの、彼らの多くが消息を絶つ。そんな中、元兵士であり生物学者のレナ(ナタリー・ポートマン)が、同じく兵士だった夫ケイン(オスカー・アイザック)の謎の帰還と重い体調不良に疑念を抱き、女性だけで構成された調査隊の一員としてシマー内部へ足を踏み入れる――というのが大まかな導入部です。
シマー内部では、動植物の遺伝子が混ざり合い、まるで万華鏡のように異形の姿へと“再構築”されている光景が繰り広げられています。人間すらもその影響から逃れられず、精神や身体が少しずつ変容していく。その先にあるのは“進化”なのか“狂気”なのか、“再生”なのか“破滅”なのか。ガーランド監督は、ビジュアル面での美しさとグロテスクな変容とを同時に提示し、観客に理性的な解釈の余地を与えながらも、不安を加速させる独特の手腕を存分に発揮しています。
◇ 3. テーマ:崩れゆくアイデンティティと自己対峙
『アナイアレイション』というタイトル(“消滅”や“全滅”を意味する)からも示唆されるように、この作品の核心は、“自己の崩壊”にあると考えられます。シマー内部では、生物学的な境界が曖昧になるだけでなく、隊員たちの精神面も大きく揺さぶられます。自己とは何か? 同一性とはどこから来るのか? 外部からの刺激によって、私たちの肉体や精神が根こそぎ書き換えられたとき、自分は本当に“自分”と言えるのか?
レナは夫ケインを救いたいという動機でシマーに入りますが、実際には夫との関係において罪悪感や後悔も抱えている。隊員たちもそれぞれ秘密やトラウマを背負っており、内部の“異常現象”に直面するたび、自身の潜在意識が表面化してくるのです。シマーによる身体的変容と、自己認識の変容が重なり合い、登場人物たちは“私とは何か”という哲学的な問いに嫌でも向き合うことになる。その過程が非常にスリリングであり、かつ観客自身のアイデンティティをも揺るがしてくるわけです。
◇ 4. 映像表現と音響:異様なほどの“美しさ”
ガーランド監督が本作で提示するシマー内部のビジュアルは、いわば“自然界のカラフルな異端児”とでもいうべき世界。その色彩は、通常の自然ドキュメンタリーではまず観られないほど鮮やかで、花畑や植物がまるで人工の照明に照らされているような不気味な輝きを放っています。また、変異した動物たち――たとえばワニや熊――の見た目は明らかにグロテスクなのに、その皮膚や鳴き声がどこか妖艶で、観る者の感性を大きく揺さぶる。ガーランド監督は、“気持ち悪い”ものを徹底して美しく撮ることで、違和感をいっそう引き立てる戦略をとっているのです。
音楽や効果音の使い方もまた秀逸。静かなシーンでは自然のせせらぎや風の音だけが聞こえ、観客はまるで自分もそこにいるかのように耳を澄ませる。しかし、突如として奇妙な電子音や不協和音が空間を満たし、視覚と聴覚のギャップが一気に不安を倍増させる。特にクライマックス近くで流れる“あの音”は、まるで人間の声のような、金属がきしむ音のような、言葉にしがたい響きを伴い、否応なく観る者の潜在意識を刺激します。美しいだけでなく、どこか生理的な恐怖を呼び起こす――これが本作の大きな魅力の一つと言えるでしょう。
◇ 5. 終盤:自己模倣と“アナイアレイション”の衝撃
本作でもっとも印象的な要素の一つに、終盤の“自己模倣”シーンが挙げられるでしょう。レナが不気味な存在と対峙するシークエンスは、観ているといつの間にか呼吸を忘れてしまうほどの迫力と緊張感があります。人間の動きを完璧にトレースする“何か”との対峙は、まるで自分自身と踊っているかのような奇妙な舞踏を思わせ、そこには“生物学的にコピーされる”という最悪の恐怖と、“同化”してしまうかもしれないという絶望感が重なり合う。まさに“アイデンティティの崩壊”と“自己侵食”の結晶とも言える場面です。
そして、炎と共にあらゆるものが燃えていくフィナーレは、原作小説からは大きく改変されている部分でもありますが、“自己破壊”と“再生”とが紙一重であることを象徴的に示しています。観終わった後に訪れるのは、完全なカタルシスとも言い難い、不思議な喪失感と、何かが変わってしまったという確信。この“後味の残し方”は、ガーランド監督の作家性に貫かれた極めて挑戦的な演出だと感じます。
■ 映画史のなかでの位置づけ
◇ 1. “SFホラー”というジャンルへの新風
ホラーとSFは古くから相性の良いジャンルとされ、リドリー・スコットの『エイリアン』(1979)やジョン・カーペンターの『遊星からの物体X』(1982)といった名作が存在します。しかし、それらが比較的“外部から襲ってくるエイリアンや寄生体”を明確な敵とする構図を取っていたのに対し、『アナイアレイション』では“領域(環境)そのもの”が主体となり、登場人物の肉体・精神を徐々に変容させるスタイルを取っています。この“外敵がいないホラー”とも言える手法は、昨今のホラー映画が“内面化”してきた潮流と合致する部分があり、まさに新時代のSFホラー像を体現していると言えます。
また、同時期には『メッセージ』(2016)や『ブレードランナー 2049』(2017)など、SFの枠を超えた深遠なテーマ性や映像美を重視する作品が注目を集めました。そこでは、壮大な宇宙戦争やアクションよりも、“人間存在への問い”や“哲学的観点”が際立つのが特徴。『アナイアレイション』は、ホラー色の濃さと幻想美の融合によって、その流れをさらに先鋭化させた作品として歴史に刻まれるでしょう。
◇ 2. “エレベーテッドホラー”としての評価
製作・配給に関しては北米ではパラマウント・ピクチャーズが絡んでいるものの、アメリカ以外の地域ではNetflixで独占配信された事情もあり、劇場公開機会が限られたことが議論を呼びました。これは“マーケティング的にリスクが高い”とみなされたからともいわれています。しかし一方で、近年の“エレベーテッドホラー”の隆盛――たとえばA24が手掛ける『ヘレディタリー/継承』(2018)や『ミッドサマー』(2019)など――と同じ文脈で語られることもしばしば。つまり、“単なるホラーではない”作品群として、批評家や映画ファンの間で高い評価を得ているのです。
このエレベーテッドホラーの特徴は、明確なモンスターによる恐怖だけでなく、人間の精神構造や哲学的テーマを重視する点にあります。『アナイアレイション』はまさしく、“未知の生命体や現象が引き起こす恐怖”に加え、登場人物それぞれが抱えるトラウマや自壊衝動が映し出されることで、作品全体に複雑なレイヤーが生まれています。従来のジャンプスケアに頼った演出と違い、観客の深層心理にじわじわと侵食してくる後味の悪さが特徴的。これこそがエレベーテッドホラーと呼ばれる新しいホラーのあり方とも言えるでしょう。
◇ 3. “自己破壊”の文学的系譜
文学や哲学の分野には、“人間の自己破壊”や“アイデンティティの崩壊”を扱う作品が数多く存在します。フランツ・カフカの『変身』やジャン・ポール・サルトルの実存主義文学などが代表例ですが、映画においても、デヴィッド・リンチやクローネンバーグといった作家が、身体・精神の変容を繰り返しテーマにしてきました。『アナイアレイション』はそれらの系譜に新たな息吹を与え、“生物学的な視点から自己を問い直す”というユニークな手法で映画史に刻まれた作品だと私は考えています。
特にクローネンバーグは“ボディホラーの大家”と呼ばれ、人間の身体が変質する恐怖を徹底的に描き続けましたが、『アナイアレイション』においても、遺伝子が書き換えられ、身体の一部が植物的構造を帯びてくるような描写は、“自然界に身体が呑み込まれる”恐怖を強烈に想起させます。ただしガーランド作品は、それを一方的な“悲劇”として捉えるのではなく、“異形の美”としても描き出す。そこにこそ、本作のユニークな位置づけがあります。
◇ 4. アレックス・ガーランド作品の延長線と挑戦
アレックス・ガーランドは『エクス・マキナ』で、“人間とAIの境界”をテーマに、ロボットと人間のどちらが“本物”なのかを疑わせる物語を紡ぎました。そこには、“知覚”と“アイデンティティ”への根源的な問いかけがあります。本作『アナイアレイション』でも、“シマー”という得体の知れない現象によって、人間の身体や意識、果ては人間関係までもが溶解し、新たな姿へと再編される。つまり、ガーランドが一貫して追求しているのは、“存在そのものが変容するときに、人は何を思うのか”というテーマなのです。
映画のラストシーンは、ある種の“答え”を提示しつつ、同時にさらなる“問い”を観客に残します。レナとケイン(あるいは“レナとケインだったもの”)が再会する瞬間に漂う不可思議な空気は、私たちに“本当にオリジナルの二人がここにいるのか?”と問いかける。ガーランドはストーリーを単純なハッピーエンドや絶望的なバッドエンドに落とし込まず、曖昧な境界のまま観客を突き放す。しかし、その突き放しこそが“自分はどう解釈するのか”を促す装置として機能し、物語からの余韻を長く引きずる要因となっています。
■ ひとこと
ここまで話しておいて、私としては、やはり本作を“未知との遭遇”と形容するしかないなと感じています。観終わった後に私が強く覚えたのは、冒頭にも述べた「違和感」「気持ち悪さ」「美しさ」の三重奏でした。そもそも通常の商業映画というのは、“いかにスムーズに観客をストーリーへ誘導し、カタルシスを与えるか”が肝要とされますが、『アナイアレイション』は真逆のアプローチを取っているように見える。
シマーという領域に足を踏み入れた瞬間、私たちは自然と“そちら側の論理”に巻き込まれていきます。しかし、どれほど鑑賞を重ねても、この映画に完全な“解”は用意されていない。そして、それが非常に刺激的であると同時に、マーケット的には“売りにくい”要因ともなる。パラマウントが海外配給をNetflixに任せたのも、そういったリスク計算が働いたからでしょう。
しかし、だからこそこの作品には新しい地平を切り開く力があると、私は信じています。ホラーやSFにおける“未知なる存在との遭遇”は、どうしても“敵か味方か”という二元論に陥りがち。しかし『アナイアレイション』は、“人間と自然の境界が崩れ、やがて一つに溶け合うかもしれない”という、新たなパラダイムを提案している。それは自然賛美でもなければ環境破壊への警告とも少し違う、“人間とはそもそも自然から切り離されていた存在なのか?”という根源的な問いを投げかけているわけです。
この境地に到達するためには、ある種の不快感やグロテスクな表現を経る必要があったのでしょう。身体や精神が変容する瞬間に、私たちは強い恐怖と拒絶を抱く。だけど、その変容があまりに美しい色彩を伴い、まるで生命の祝祭のように見えたとしたら? この相反する感情が同居する不思議な体験こそ、ガーランドが狙った“映画の醍醐味”ではないかと私は考えています。
映画史的に見ても、本作は“エレベーテッドホラー”としての性質を持ちつつ、SF映画の新たな可能性を切り拓いた一作と言えるでしょう。人間のアイデンティティを解体し、自然との境界を曖昧にしていくこのアプローチは、これからのフィクションに大きな影響を与えていくに違いありません。製作面でも、ハリウッドの大手スタジオが配給を渋り、Netflixが権利を引き受けたという一連の出来事は、今後の映画配給のあり方が大きく変わることを示唆するトレンドのひとつだと思われます。
そして最後に、声を大にして強調したいのは、本作のような“挑戦的作品”がきちんと作られ、世に出ることの尊さです。興行収益だけを求めるのではなく、ホラーやSFというジャンルを通じて“人間”そのものを深く掘り下げる作品が、一定の予算と才能を得て実現される――これは映画業界全体にとって大きな財産です。『アナイアレイション -全滅領域-』は、好みが真っ二つに分かれる作品かもしれません。しかし、“違和感”や“気持ち悪さ”を敬遠せず、“美しさ”という要素ともども受け止める覚悟があるならば、きっと忘れられない鑑賞体験を与えてくれる。私にとっては、そんな“映画という宇宙の無限の広がり”を確信させてくれる貴重な一本です。
この作品を観終わって感じる余韻は、ある種の啓示でもあり、また静かな恐怖でもある。自分がどこまで“自分”であり続けるのか――その問いを抱え続ける観客こそが、この『アナイアレイション』の真の“領域”へと足を踏み入れたと言えるのではないでしょうか。それこそが、映画が持つ魔力のひとつなのだと、声を大にして語りたいのです。