【考察】スーパーマリオが天皇になる近未来

1. スーパーマリオはなぜここまで愛されるのか

スーパーマリオは、任天堂が生んだ世界的に有名なゲームキャラクターです。1985年にファミリーコンピュータ向け『スーパーマリオブラザーズ』が発売されて以来、何十年にもわたって世界中の子どもから大人まで幅広く親しまれてきました。その魅力を簡単にまとめるならば、以下のような点が挙げられます。

  1. シンプルかつ奥深いゲーム性
    横スクロールで“ジャンプ”を繰り返すというシンプルなアクションでありながら、ステージ設計やアイテム使い分けなどが巧みに組み込まれ、初心者も上級者も楽しめる奥深さを兼ね備えています。

  2. 国籍や文化を超えた普遍的キャラクター
    マリオというキャラクターは、イタリア系配管工という設定こそあるものの、血なまぐさい争いをするわけでもなく、宗教色や政治的主張を帯びません。誰にとっても親しみやすく、争いの火種になりづらい象徴的存在として広く浸透しています。

  3. 大衆文化のアイコンとしての確立
    ゲーム界のみならず、映画・アニメ・商品コラボなど多方面に展開しており、キャラクターとして高い知名度とブランド力を維持している。いわゆる「国民的キャラクター」の域を超え、グローバルな知名度を持つIPです。

こうしたマリオの“普遍性”と“誰もが知る親しみやすさ”が、今回の「天皇になる」という突拍子もないアイデアと結びついてくるわけです。これを映画的に描くならば、一見ユーモアとして見る人が多いでしょう。しかし、そこに潜むテーマ――「誰もが知っている、争わない・争われない象徴」という側面――を深堀りしていくと、意外にも社会や歴史に根ざしたシリアスな問いへ到達するかもしれません。

2. そもそも天皇とは何か?――“象徴”の意味を優しくおさらい

映画やドラマの脚本を考えるとき、まずは題材となる概念をきちんと理解する必要があります。「天皇」と聞いて、日本人であれば大抵「日本の象徴」「皇室に属する」「歴史と伝統を背負う存在」といったイメージを抱くはずです。しかし改めて、「天皇とは何か?」という問いは意外にも奥深い。

日本国憲法では、“天皇は日本国及び日本国民統合の象徴”と定められています。これは「政治権力を握っている存在」ではなく、「存在そのものが国民統合のよりどころである」という建前です。これを映画的に解釈すると、天皇は“ストーリー”を引っ張るリーダーではなく、むしろ“世界設定の根幹”として描かれるキャラクターに近いとも言えます。

歴史的には、天皇は古代の律令制では絶対的な権力を持ち、中世以降は武家政権の影に隠れ、近代以降は再び政治の表舞台に引き出され、戦後は象徴天皇制へと変化してきました。つまり、時代ごとに“天皇”の意味や役割が微妙に変わり続けているのです。

それゆえ、「マリオが天皇」という極端な仮説も、まったくの荒唐無稽とは言い切れません。社会構造や歴史認識が大きく変容すれば、“象徴”としての在り方も変質しうる――それは過去の歴史が証明しているとも言えます。

3. “天皇=マリオ”という突拍子もないアイデアが生まれた背景

ここまで読んで「いや、さすがにネタでしょ?」と思われるかもしれませんが、この仮説の背後にはいくつかの現代的背景が存在します。

  1. グローバル時代の“日本”を体現する存在の希薄化
    戦後の国民国家としての日本は、経済発展とともに「技術立国」「安全な国」というイメージを世界に示してきました。しかしバブル崩壊や少子高齢化、国際競争の激化などで、国内から「日本」というアイデンティティを支える柱が脆弱になってきています。
    他方で、任天堂やスタジオジブリ、漫画・アニメといったコンテンツ産業は海外でも根強い人気を誇り、むしろ「クールジャパン」として海外から称賛される場面も多い。誰にでも通じる象徴としては、伝統よりもポップカルチャーの方が圧倒的に強力なのです。

  2. “象徴力”が人間性よりもキャラクター性に置き換わる時代
    SNSやメタバースなどの普及により、バーチャルなキャラクターが実在の人間を凌駕するほどの影響力を持つケースが増えました。YouTubeで人気のVTuberや、SNSでフォロワー数が数百万人を超えるアニメアイコンなど、“中の人”が見えない存在にこそ人々が熱狂する現象もある。
    これは、一枚皮をはぐと“中の人”がいるにせよ、「キャラクターという表象」自体が社会やコミュニティを統合する力を持っていることを示唆します。天皇という存在も、「人間=血統」という前提が覆されたならば、いっそキャラクターが引き継ぐ形もありえるという、社会的想像力の変容が生まれるわけです。

  3. 政治や宗教と距離をとれる“中立的”存在
    スーパーマリオは、どこの国の人にも親しまれやすく、過激な宗教観や政治思想と結びつきづらい特徴があります。天皇が「国家元首」ではなく「象徴」になった戦後の枠組みは、ある種“政治的争点”を回避するための知恵でもありました。マリオが担うならば、さらに政治や宗教から切り離された純粋な存在として機能しやすいわけです。

こうした背景を踏まえたうえで、「スーパーマリオが天皇になる」というアイデアは、単なる冗談やパロディでは済まされない“時代の変化の兆し”を映していると考えられるわけです。

4. 映画制作の視点①:キャラクター造形と物語構造

では、この仮説を映画にするとしたら、どのような物語設計が考えられるでしょうか。まずはキャラクター造形と物語構造を考察してみます。

  1. マリオ=元配管工のバーチャルアイドル?
    現代の“皇室”を舞台にするとやや生々しいので、物語上は近未来の日本を設定し、皇族の血統が絶えそうになるところに「AI化されたマリオ」が救世主的に登場する――といった導入も面白いかもしれません。
    マリオ本人は「自分はキャラクターだったはずなのに、なぜ今こうして日本の象徴を担うのか?」と戸惑う。その葛藤を通じて、観客は“天皇制”というものの本質を改めて問い直すきっかけを得るわけです。

  2. 姫を助けるマリオの行動原理――まさかの“皇室典範”?
    マリオといえば、ピーチ姫を救うという定番の物語があります。一方、天皇制の継承や結婚問題などに代表されるように、日本の皇室には多くの儀礼や規定があります。この両者を結びつけるなら、「皇室典範に守られた姫を救うマリオ」という構図が皮肉かつユーモラスに描かれるかもしれません。
    そもそも姫は本当に救われるべき存在なのか? 王子(天皇)と姫(皇女)の関係は誰のためにあるのか? こうした問いを、あくまでコメディタッチで進めながら、最後には重厚なテーマへ繋げる映画に仕上げることも可能です。

  3. ジャンプする天皇――“国民を導く”のではなく“共に走る”
    マリオの行動特徴の一つは「ひたすらにジャンプし、走り続ける」ことです。これはリーダーというよりは“挑戦する者”“冒険者”のイメージに近い。映画のなかでマリオ天皇が何かを決断するというよりは、国民と一緒にプラットフォームを跳び移りながら、“新しい日本”を見つけようとする姿勢を象徴するかもしれません。
    これまでの日本の天皇像とは大きく異なるだけに、物語としては斬新かつ挑戦的です。

5. 映画制作の視点②:映像表現と演出手法

映画の最大の魅力は、視覚・聴覚に訴える演出です。スーパーマリオが天皇になる作品を撮るならば、演出面ではどのような工夫が想定できるでしょうか。

  1. ファンタジーと現実世界の融合
    任天堂のゲーム世界観には、キノコ王国やクッパ城など、実在しないファンタジー空間が登場します。一方で天皇制は極めて現実的で歴史的背景が濃い題材。これをどう融合させるかが肝心です。
    たとえば、舞台を「近未来の東京」と設定し、そこに「マッシュルームタワー」や「土管型の建造物」が出現するビジュアルを使えば、ファンタジー世界が現実に侵食してくる感じを出せます。天皇としての公務が「外国訪問」ではなく、「別のゲーム世界を訪問する」などの斬新なパロディ要素も加わるかもしれません。

  2. “神事”としてのジャンプアクション
    天皇が行う宮中祭祀などは、神道的儀式が多い。これをマリオ流に置き換えるなら、「神事=ジャンプアクション」という形で、伝統とゲームアクションをコミカルに結びつける演出が考えられます。国民的行事の場でマリオが土管に入って移動する様子を、厳かに映す――そんな奇妙なコントラストが、映画としては強烈なインパクトを残すでしょう。

  3. カラー・光・音楽の統一感
    マリオの象徴的色は赤と青、そしてヒゲに代表されるキャラクターデザイン。一方、皇室儀式や宮中装束は白や深い緑、紫など落ち着いた色味が多い。この対比が映像上でも強く印象付けられるため、意図的にコントラストを調整することで、ポップなマリオ感と厳粛な皇室感を同時に表現できます。
    また、作中BGMに「スーパーマリオ」のテーマを和楽器アレンジで使用するなど、遊び心あふれる演出も考えられます。例えば琴や三味線であの有名なメロディを奏でると、妙に荘厳な雰囲気が出るのではないでしょうか。

6. 映画制作の視点③:配役・脚本・テーマソングの選定

次に、より具体的な映画制作上の要素を挙げてみましょう。

  1. 配役(キャスティング)

    • マリオ天皇(声/モーションキャプチャ):世界的にも人気があり、コメディやシリアスを自在にこなせる俳優や声優を選ぶ必要があります。原作のマリオ役・チャールズ・マーティネー氏が特別出演するのも胸熱ですが、日本映画向けに吹替の実力派が挑むのも面白いでしょう。

    • ピーチ姫/皇女:ヒロイン枠として女性俳優が必要。ただし日本の皇族風のたたずまいと、ゲーム的ファンタジーの要素を両立できる華やかさが求められます。

    • クッパ(敵対キャラか?友好キャラか?):国家間の摩擦や歴史的因縁を象徴するキャラとして登場するのもアリでしょう。むしろ日本社会を批判的に眺める立場として配置すると、物語に厚みが出ます。

  2. 脚本(ストーリーライン)
    例えば、こんな筋書きが考えられます:

    • 第一幕:近未来の日本、皇族の血統が絶えそうになり、国民は“次の天皇”不在に戸惑う。そこに突如としてゲーム世界から“マリオ”が訪れる。

    • 第二幕:マリオは「国民統合の象徴」として担ぎ上げられるが、政治や儀式などの現実問題に戸惑う。一方、マリオの存在を危険視する勢力が暗躍し、クッパなどのゲーム世界のキャラも現実に侵入して社会を混乱に陥れる。

    • 第三幕:国家的危機のなか、マリオは“土管”を通じて異世界を行き来しながら、国民の心をひとつにまとめようと奔走する。最終的にはジャンプによる“儀式”で世界を救いつつ、国民は「新しい象徴とは何か」を改めて認識する。

  3. テーマソング
    任天堂の公式楽曲をベースに、著名な作曲家がアレンジを施すか、あるいはJ-POPアーティストに依頼して“マリオ天皇”オリジナル曲を制作しても良いでしょう。天皇制を扱う以上、不必要に軽薄になるのは避けたいものの、あえてポップで明るい曲調にすることで「これまでの天皇像」とのコントラストを際立たせることができます。

7. 歴史考察からみる“象徴”の変遷と、マリオ登位のリアリティ

ここから少し視点を高め、歴史的に“象徴”がどのように変遷してきたかを見直しましょう。日本の歴史を振り返ると、天皇は常に強い権力を持っていたわけではありません。むしろ院政や幕府などが政治の実権を握り、天皇は“祈り”や“存在”で国家の秩序を体現してきた時期も長いのです。

また、第二次世界大戦後の日本国憲法は、天皇を「日本国および日本国民統合の象徴」として位置付けました。これは「政治家」ではなく、「国民が共感できる象徴」であるという点に重きが置かれている。言い換えると、ある種の“キャラクター”としての機能を期待されているとも解釈できます。

この文脈で考えると、スーパーマリオのようなポップカルチャーのキャラクターが天皇的機能を担うというのは、実はそこまでかけ離れた話ではないのかもしれません。もし人間の血統による皇位継承が途絶えた場合、国民投票やAIの判断によって「次の象徴」を選ぶという近未来シナリオも、SFとしては十分に成立します。

歴史の教訓をたどると、「天皇」の在り方が根本から変わった例としては、1868年の明治維新や1945年の敗戦後などが挙げられます。こうした大きな社会変動期には、天皇制そのものが全く別の意味を担うようになることがある。もし今後、さらなる大変動が起きれば、“人間の天皇”に代わるまったく新しい象徴もあり得る――その一候補が“マリオ”だというわけです。

8. 国民と“象徴”の関係――ファンタジーが現実を超える瞬間

映画・ドラマを通じて描かれる“象徴”の物語は、往々にして私たちの心の深い部分――ファンタジー欲求――を刺激します。たとえば、ディズニーの王子様やお姫様が国を治めるおとぎ話、コミックのヒーローが現実社会を救うストーリーなど、私たちは「こうだったらいいのに」という願望をエンターテインメントの形で楽しむわけです。

スーパーマリオもまた、誰もが知るファンタジーの象徴的存在です。そこに“天皇”という現実の権威を重ね合わせると、現実と虚構の境界を曖昧にしつつ、観客に「象徴とは何か」という根源的な問いを突きつける力を持つと考えられます。

  • ファンタジーが現実を超えるとき
    私たちが現実の制度(たとえば政治・皇室)に失望や違和感を覚えるとき、ファンタジーの中に救いを見出すことがしばしばあります。もしマリオが天皇になり、誰もが笑顔になれる国づくりに奔走する姿が描かれたなら、現実の問題を見つめ直すきっかけにもなり得るのです。
    また、映画の力は「本来ならありえない架空の設定」を映像として視覚化するところにあります。そこに説得力が伴えば、観客はいつしか「本当になりそうだ」と錯覚するほど世界観に没入するでしょう。

9. 海外からの視線:グローバルなキャラクターがもたらす影響

スーパーマリオは、日本のキャラクターでありながら、グローバル市場でも圧倒的に知られています。これは「天皇=マリオ」論を海外の視点から捉えたときの面白みの一つでもあります。

  1. 世界共通言語としてのマリオ
    実在の天皇や皇室は、日本国内では大きな関心事ですが、海外にとってはあまりなじみのない存在です。しかしマリオであれば、アメリカやヨーロッパ、アジア各国の子どもたちにとっても非常に親しみやすいキャラクターです。
    もし映画で「マリオ天皇」が世界を訪問するシーンがあれば、相手国の首脳陣や子どもたちが一緒にジャンプアクションを楽しむ姿が描かれるかもしれません。これは“外交”のパロディ表現にもつながるし、現実の国際社会に一石を投じるユーモラスな演出になるでしょう。

  2. 文化的衝突の可能性
    一方で、海外の人々が「天皇=マリオ」という設定を見たとき、「日本人は自国の伝統を捨ててしまったのか?」と受け取るかもしれません。あるいは「バーチャルキャラクターが元首になるとは、未来的だけど危険」という懸念を抱くかもしれない。
    映画の中では、こうした海外メディアの反応が描かれてもよいでしょう。現実でもし“マリオ登位”が起これば、海外からの戸惑いや批判、そして熱狂的支持が入り混じることが想像されます。

  3. 任天堂や日本企業への追い風
    グローバル経済の視点では、国の象徴が“マリオ”になることで、日本のコンテンツ産業や経済活動にプラス効果があるかもしれません。観光やグッズ販売など、エンターテインメント産業全体が盛り上がる可能性もある。
    これは映画のプロモーション戦略としても活かせる要素で、架空の中での“マリオ天皇”フィーバーが現実のマーケットにも波及するようなクロスメディア展開が考えられます。

10. 社会への波及効果――想定されるメリットとデメリット

映画の中でどれだけ面白い物語を展開しても、そのテーマが社会問題を内包していれば、現実とのリンクが強まります。「マリオ天皇」をもし“現実に”導入するとしたら、どんなメリット・デメリットが生まれるかを考えてみましょう。

メリット

  1. 政治・宗教的対立の緩和
    マリオは“政治色”や“宗教色”が非常に薄く、対立を生みにくいキャラクターです。国民や政治家、宗教関係者も「マリオなら仕方ない」と笑顔で迎えられるかもしれません。

  2. 国民の親近感向上
    子どもからお年寄りまで、マリオを知っている人は多い。血統による敬遠感より、キャラクターによる親近感のほうが強い国民が増えるならば、“国民統合”の象徴としては効果的と言えるでしょう。

  3. 観光・経済効果
    “マリオ天皇”を目当てに海外からの観光客が増えたり、関連グッズやイベントなどが国全体の経済活性に繋がる可能性もあります。

デメリット

  1. 伝統的価値観との衝突
    皇室制度や神道的行事を大切にしてきた人々にとっては、「キャラクターが天皇になる」という発想自体が許容しがたい冒涜かもしれません。

  2. 権威の薄弱化
    象徴天皇制といえど、「あまりにポップすぎる存在」による代替は、国家や制度の権威が消失する恐れもあります。

  3. 国民全員が愛せるか?
    マリオ好きだけではない人や、ゲームをしない世代、あるいは他のキャラクターを推す人との間で摩擦が生まれる可能性があります。結局、みんなが“同じマリオ”を愛せるわけではないので、国民統合が逆に困難になるかもしれません。

こうしたメリット・デメリットの両面は、映画のストーリーにも緊張感を与えてくれる要素です。“マリオ天皇”を巡って国民が賛否両論に分かれ、各自が価値観をぶつけ合う展開は、ドラマとしても見応えがあることでしょう。

11. 文明論・文化論としての“マリオ天皇”

ここまで多角的に見てきたように、「スーパーマリオが次の天皇になる」構想は、冗談半分であっても社会や歴史を深く問い直すテーマをはらんでいます。最後に、さらに高次の視点――文明論・文化論としてこの仮説を捉えてみましょう。

  1. “人間”から“キャラクター”へ――象徴の非人間化
    天皇は古来より「現人神(あらひとがみ)」とされ、神聖性を帯びた存在でした。戦後はそれが緩和され、“人間宣言”によって象徴天皇として人間性が強調されるようになりました。しかし、もしこれが“キャラクター”に置き換わるのだとすれば、象徴の非人間化という新たなステージに進むことになります。
    AIやメタバースが進化する中、“人間”を中心に据えてきた近代社会の根幹が揺らぎつつある現代には、むしろ自然な流れなのかもしれません。

  2. 文化的多象徴制――複数のキャラクターが役割分担をする未来
    将来的に、天皇の地位を単一の存在が独占するのではなく、“複数のキャラクター”が象徴として役割分担をする可能性も考えられます。マリオが外交面を、ドラえもんが子どもとの親和性を、キティちゃんがファッションやカルチャーを、といった具合にシチュエーションごとに象徴が変わる仕組みです。
    これを映画で描けば、まるでアベンジャーズのような“象徴連合”が日本を支える光景が生まれ、奇抜ながらも意外に説得力を持つかもしれません。

  3. 神話性の再構築――“マリオ神話”の可能性
    過去には“天孫降臨”などの神話を通じて、皇室や天皇の正当性が語られてきました。だが、現代にはそうした神話を信じる人は限られています。そこで、新たな神話として「マリオが異世界からやって来て、日本を救い、民を導く」という物語が位置付けられるかもしれません。
    映画のなかで“マリオ神話”が壮大に描かれ、国民がその神話を共有することで、新しいコミュニティの絆が生まれる――これはファンタジー的でありながら、文明のあり方を問う重要なテーマです。

12. 映画的想像力が切り開く未来のかたち

ここまで「スーパーマリオが次の天皇になる」という大胆仮説を中心に、映画制作と映画考察の視点で掘り下げてきました。まとめると、この仮説は以下のような広がりを持っています。

  • 映画制作の題材として
    誰もが知るキャラクター×日本の象徴という組み合わせは、コメディとシリアス、パロディと社会批評の両面を併せ持つ強力なコンセプトとなりえます。

  • 社会・歴史・文明論として
    天皇制の変遷や象徴の在り方を根底から問い直し、ポップカルチャーへのシフトやAI時代の人間観など、複雑な問題提起が可能です。

  • 未来予測やSFとして
    実際にマリオが天皇になるかどうかはともかく、バーチャルキャラクターや仮想アイドルが国家的行事を担う可能性は、今後の技術・文化の進展次第ではけっして絵空事ではないかもしれません。

映画は往々にして、私たちの未来を先取りする鏡となります。「そんなバカな話、ありえないでしょ」と笑ううちに、知らぬ間に社会が変化し、気づけばかつてSFや冗談だったものが現実化している――そのような例は歴史上いくつもありました。

スーパーマリオという国民的・世界的に愛されるキャラクターが“天皇”になり、ジャンプやキノコの力で国を導く――それが仮に架空の出来事でも、私たちはそこから多くを学び、現実の世界を別の角度から見つめ直すきっかけを得ることができます。なぜなら「映画的想像力」は常に、社会のリアリティを変革する潜在力を秘めているからです。

結局のところ、このアイデアは**「日本が抱える伝統と革新の矛盾を、ユーモアをもってさらけ出す試み」**とも言えます。映画化されるかどうかはともかく、いつの日か、私たちが「人間としての天皇」ではなく、キャラクターによる象徴を受け入れる時代が来るかもしれません。そのとき、“マリオ天皇”は本当に実現するのか――。

想像を膨らませながら、どうか読者の皆さまも、未来の日本や文化の可能性を一緒に考えてみてください。映画的な空想は、一見バカバカしいようでいて、いつのまにか現実を超えてしまう力を持っています。そう、“ジャンプ”ひとつで空を飛ぶマリオのように。

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