祝詛という贈り物 ──すべての「やりきれなさ」へのラブレター

1|ことばにならないものの、ために

ある日、ふと思ったことがありました。

「これは……祝福なんだろうか? それとも呪いなんだろうか?」

人生のなかで、そんな風に感じる瞬間がありませんか。
心から望んだことのはずなのに、なぜか苦しくて、孤独で、でもなぜかやめられない。そんな“感情の交差点”に立たされたとき、私たちはよく分からなくなる。

それでも前に進んでしまう。泣きながら、笑いながら。
まるで、それが運命であるかのように。

そんな瞬間に出会うたび、私はずっと、名前のないその気持ちに言葉を与えたくなっていました。

そしてあるとき、ひとつの言葉を思いついたのです。

「祝詛(しゅそ)」──祝福と呪詛のあいだにある、名づけられぬ感情を指す、私の造語です。


2|祝福と呪詛、どちらもほんとう

「祝詛」は、ただの言葉遊びではありません。

この世界には、「祝福」だと信じていたものが、ある日「呪詛」に変わることがあります。
あるいはその逆も然り。「呪いだ」と思っていたことが、時間を経て「祝福だった」と気づくこともある。

たとえば、夢を追いかけて遠くの街に出た青年。
誰にも頼らず、ひとりきりで歩いた数年間。寂しさと絶望、自己嫌悪にまみれた日々。
でも十年後、彼は言いました。「あの孤独が、俺を人にしたんだ」と。

あるいは、会社をやめて家業を継いだ女性。
本当は違う道を歩きたかった。なのに、事情があって「やむなく」戻った。
けれど、ふとした瞬間、母と笑い合うひとときを通じて、「ここに帰ってきてよかった」と思える日があった。

これが「祝詛」──祝福と呪詛が重なり合うように存在する、生の揺らぎです。


3|なぜ「祝詛」が必要なのか?

近年、世の中には「ポジティブであれ」「成長し続けよ」といったメッセージがあふれています。
もちろん、それ自体は悪いことではありません。でも、その裏側で、語れないまま心に沈んでしまう“弱さ”があるようにも思います。

「本当はつらい」「やりたくない」「誰にも理解されない」
そんな声を、心のどこかで押し殺して、前を向こうとする人たち。

私は、そういう声こそが大切だと思っています。
その声を肯定するために、「祝詛」という言葉を差し出したいのです。

苦しんでいるあなたを、肯定したい。
どうにもならない感情を抱えているあなたに、「それでいいんだ」と言いたい。

「祝詛」とは、そのままのあなたを、光も影もひっくるめて肯定するための言葉なのです。


4|日常のなかの「祝詛」たち

「祝詛」は、なにも特別な経験に限られたものではありません。
むしろ、それは私たちの日常のなかに、あたりまえのように潜んでいます。

・ある親の話

毎日、仕事と育児と介護に追われる日々。「幸せになりたかったはずなのに、なぜか苦しい」と言う彼女。
でも、ふと息子が「お母さん、ありがとう」と笑ったとき、涙があふれた。
──「もう、十分だった」そう彼女は言いました。

・ある教師の話

手のかかる生徒を何年も担当し、どうしようもなく疲弊していたある年。
卒業式でその生徒が手紙を渡してくれた。「先生が信じてくれたから、逃げなかった」と。
その一行に、すべてが救われた。

・ある清掃員の話

「なんで自分がこんなことを…」と思いながら、誰も見ていない朝に街を掃除していた男性。
ある日、通りすがりの子どもが「おじさん、かっこいいね」と言った。
その言葉で、すべてが誇りに変わった。

こうした「報われなさ」と「小さな光」が混ざりあう物語のなかに、「祝詛」は静かに息づいています。


5|「ものづくり」に潜む祝詛

何かをつくること──それは、祝詛の塊のような営みです。

アイデアが湧かない。うまくいかない。仲間とぶつかる。
作業は果てしなく、評価はされず、でもやめられない。なぜなら、どこかに「信じたい気持ち」があるから。

作品が生まれたときの一瞬のきらめき。
誰かがそれを受け取って、言葉をくれたときの感動。
すべての報われなさが、その一滴の光によって報われる瞬間。

創作とは、「祝詛」を抱えながら歩く旅なのかもしれません。


6|AI時代における「人間らしさ」

テクノロジーは日々進化し、あらゆる作業が効率化されています。
言葉も、絵も、音楽も、AIが自動で生成してくれる時代です。

けれども、そうした技術の進化が進むほど、私たちは「非効率なもの」への愛しさを再発見するようになってきました。

何度も書き直して、ようやくたどりついた言葉。
偶然のミスから生まれた独特の表現。
伝わらない悔しさを抱えながら、それでも表現をやめない人。

そこには「祝詛」があります。
それは人間だけが持つ、“失敗してもなお進む力”です。

この非効率こそが、「人間らしさ」であり、世界を豊かにするものだと私は信じています。


7|「祝詛」という視点で世界を読み替える

もしも世界を「祝詛」という視点で見直すことができたら、私たちはもっと優しくなれるかもしれません。

■仕事で怒られて落ち込んでいる人
→ それは、誠実にやろうとした証です。

■何かを辞めた人
→ 勇気ある決断です。逃げることは、時に祝福です。

■誰にも理解されなかった人
→ 孤独に耐えたあなたの存在は、未来の誰かを照らす光になります。

「祝詛」は、人生のすべての“やりきれなさ”に、小さな名前を与える装置です。
この世界の解像度を、少しだけ上げてくれるフィルターのようなものです。


8|祈りのように──最後に

私はこの言葉を、誰かに強制したいとは思っていません。
ただ、今の社会に必要な“余白”として、そっと差し出したいのです。

あなたの背負うものに、もし名前がなかったら。
もし誰にも言えない痛みがあったら。

その感情を、「祝詛」と呼んでみてください。

あなたの人生は、決して無意味ではなかったと。
すべての涙と傷とため息に、小さな光が宿っていたのだと。
──それが「祝詛」という言葉に込めた、私の祈りです。

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