【熱海】頼朝ラインと一杯水

熱海梅園から多賀へ抜ける山道・頼朝ライン

熱海から伊豆方面に向かうルートとして海沿いを通る道と、山を抜ける道がある。JR来宮駅から西にある熱海梅園の交差点から山を越えて、戸田幸四郎絵本美術館近くまで出る道を「頼朝(よりとも)ライン」と言います。

頼朝公一杯水 頼朝ライン

頼朝ライン

(頼朝ラインと名が付きますが、普通の山間部を走る一般道です)

かつての主要道路であり、名前の由来は「頼朝の一杯水」からきています。源頼朝が伊豆山へ逃れる際、山越えて疲れ果ててしまったといいます。そこで岩に腰掛けようとしたところ、太刀が触れた場所から水が湧き出しました。これを飲んだ頼朝は元気を取り戻し、無事に逃げのびたという伝説があります。その水が「頼朝の一杯水」です。

頼朝公一杯水 頼朝ライン

街路樹の【なつめ】

この頼朝ラインには、街路樹として『なつめ』の木が植えてあります。いった何故なのか?看板に書かれていました。

頼朝ラインの由来

水師営の「なつめ」

水師営の「なつめ」 この道は、愛称「頼朝ライン」と名付けられており、古くは鎌倉街道の一部とも云われております。往時鎌倉幕府を開いた源頼朝が伊豆と鎌倉を結んだ道であります。 ここに植えられている街路樹は、すべて「なつめ」の木で全部で135本あります。大部分市内外の人達の好意により寄付を受けたもので、植木は市職員の奉仕によるものであります。特にこの中には、日露戦争で乃木将軍が敵将ステッセルと旅順近郊の一寒村「水師営」で会見し、開城を約したとき、その場所の民屋に植えられていた「なつめ」の木の種子を明治の末期、熱海在住の元子爵曽我祐邦氏が持ち帰り自宅の庭にて育成しましたが、(樹齢九十有余に達しましたが平成8年11月朽果てました。)これを分木し、植えたものが十数本あります。【明治三十七年、日露が国運を賭けた旅順の攻防について、市に居住されていた国文学者・佐々木信綱先生の作られた「水師営の会見」・・・『庭にひともとなつめの木』の歌詞は、戦前国民的な愛唱歌として親しまれました。】この場所は、沖に初島を望み、波静かな多賀湾を一望できる景勝地であり、近くには史跡「頼朝の一杯水」があります。この道が、この土地が古く源氏再興のため豪族が往来したゆかりの場所であり、また、植えられている街路樹が人々の善意によるもので今に残る、十数本の水師営の「なつめ」の木は、私たちの胸裡に限りない郷土愛と共に源・平盛衰の昔を懐古し、遠くなる明治のロマンと郷愁を想い出させます。 平成十年六月吉日 伊東線親和会 上多賀なつめの会

そして、その看板の近くに【頼朝公一杯水】の標識がありました。こちらはさらに年季の入ったものです。

頼朝公一杯水_00

頼朝公一杯水

周辺の案内地図【湯ったりまっぷ!熱海市】もありました。

頼朝公一杯水 案内板

案内板【湯ったりまっぷ!熱海市】

地図中央、山の中に「頼朝の一杯水」があります。この看板の立つ場所には、車2〜3台分の駐車場スペースもあります。訪れた日には、他の方はだれもいませんでした。

頼朝公一杯水 案内板

頼朝一杯水苑地

頼朝公一杯水 山道

頼朝公一杯水 山道

看板の場所から歩いて1分、山道を歩くと目的の「頼朝公一杯水」があります。

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史跡 頼朝の一杯水

頼朝の一杯水 看板

頼朝の一杯水 看板

頼朝公一杯水_10

頼朝公一杯水

水溜り場に屋根がついているほか、お地蔵さんの社がありました。。水溜り場の奥からは綺麗な湧き水が流れ落ちています。毎日、地元の方が清掃していると思われます。水の中には落ち葉一つなく、綺麗な状態にたもたれていました。

頼朝公一杯水

流れ落ちる頼朝公ゆかりの湧き水

柄杓が置いてありましたので、頼朝の太刀が当たった場所から湧き出た水を自分もいただきました。神霊感じさせる力水です、美味しかったです。

まとめ

熱海に来てみると、頼朝公ゆかりの場所の多さに驚かされます。鎌倉や韮山など縁の市町村と協力して源頼朝サミットが開催できますね。

源頼朝ゆかりの記事

【熱海】関八州総鎮護 伊豆山神社

→【熱海】今宮神社 源頼朝公源氏再興祈祷之神社

→【熱海】ホテル水葉亭敷地にある頼朝・政子ゆかりの「秋戸郷」

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