2016年11月に「海辺のあたみマルシェ」へ行ってきました。
その時の様子はこちらから→「【熱海】あたみマルシェレポート」
古き熱海を知る昭和レトロ散歩
熱海銀座通りにて、奇数月に一回行われる「海辺のあたみマルシェ」トークショーやミュージシャンのストリートライブなどがある中、地元の方が案内する「昭和レトロ散歩」が行われていた。14時にスルガ銀行本部前に集合で、10名限定、参加費用は1,000円。参加してきましたので、その時の様子をレポートします。
14時に行くと、参加者が7名ほど。地元の方が3名と県外から来られたとお見受けできる方が3名、あと自分です。案内の方は、地元熱海生まれ、それも熱海銀座で生まれ育って、一時期は山口県に住んでいたそうですが、今は熱海に戻りで住んでおられます。「この町歩きのためマルシェに参加してるみたんなもんだよ〜」なんておっしゃってました。
歩きながら熱海の歴史を知ることができるという企画、さっそく「昭和レトロ散歩」行ってみましょう。この熱海銀座はJR熱海駅から徒歩20分のところにあり、熱海市の中央部。海岸に出るのもすぐですし、市役所もすぐ近くにあります。町歩きスタートすると、熱海銀座を出て山の手・北に向かって歩き始めました。
熱海七湯 大湯間歇泉
熱海銀座を抜けると熱海ニューフジヤホテルからニューフジヤホテルへ、そこに「大湯間歇泉」大昔は地面が揺れるほどお湯が吹き出ていたという間欠泉で、熱海七湯の一つである。
ポイント1.静岡県天然記念物のヤシの木がある。
すみません、写真を撮り忘れていました。訪れた方はチェックしてみてください。熱海市の資料によると、明治4年イタリア人によってレモン、あたみ桜と一緒にナツメヤシが熱海にもたらされ、市内の多くの場所に植栽されている。最も古いものの一つがここに残っている。
ポイント.2 市外通話発祥の地
熱海には、明治期より要人たちの別荘地が多くあり、政治家たちも過ごしていた。当然、重要案件のやりとりもここ熱海から行っていました。距離の壁を越えてコミュニケーションできる文明の利器が電話であり、東京と市外をつなぐ電話が最初につながったのは、ここ熱海です。帝都・東京での重要な案件は、市外通話を通じでここ熱海に情報が伝わっていたのである。また、熱海で決まったことが東京へとすぐさま伝えられたのです。
明治維新後の熱海では、閣僚会議も度々催され、熱海内閣、熱海閣議などと新聞紙上で紹介されました。華族をはじめ、維新の元勲三条実美公や右大臣の岩倉具視公、大久保利通、木戸孝允 、西郷隆盛、伊藤博文、大隈重信などの政界の重鎮、三菱・住友・三井といった財閥や今日の大企業の創設者に、著名な文人墨客など、熱海に別荘を構え、来遊した名士は枚挙にいとまがありません。当時、首都圏の新聞紙上で、
「熱海に遊ばざるは、名士に非ず、文人墨客に非ず、天下の豪商に非ず」
と紹介されたほどです。
市のホームページより http://www.city.atami.shizuoka.jp/
熱海に遊ばざるは
名士に非ず、文人墨客に非ず、天下の豪商に非ず
大事なことなので、繰り返しました。
その市外通話の発祥の地ということで、記念碑的に公衆電話があります。レトロな六角形の電話ボックスが、この大湯間欠泉の隣にたっている。
そして、誰が使ったのか?「日光猿軍団」と「トシちゃん」の使用済みテレホンカードが、公衆電話の上に。。。
ポイント.3 愛犬トビーの碑
見どころポイント3。黒船来航でペリーの名前は、日本国民すべらかく知られている名前だと思います。しかしオールコックの名前は、あまり知られていない。いや、ほとんど知られていない。ペリー来航と同じくして、イギリスからも大使が日本にやってきている。イギリス大使ラザフォール・オールコックである。もともと外科医だった彼は、中国・清の外交官として活躍しアヘン戦争を巻き起こす。その手腕をかわれて日本担当になり、長崎・神奈川・函館を開港させた。そして、帰路の途中に富士山に登り、富士山に初めて登った外国人になるのです。江戸幕府は、ガイジンに富士山を穢されるの嫌がったようですが結果的に登っています。自分は富士山登頂経験がないのですが、表富士五合目にはオールコックの碑が立っています。富士山を後にしたオールコックが立ち寄ったのは、熱海。温泉に入ってゆっくりとカラダを休めたかったのでしょう。しかし、オールコックに悲劇が待ち受けていました。
トビー「キャイ~〜〜〜ン」
いや、悲鳴をあげる間もなかったかもしれません。オールコックに訪れた悲劇というのは、トビーの死だったのです。地面を揺らすほど湯が飛び出す大間欠泉。近くをトビーを連れて歩いていたのでしょう、間欠泉から出た湯によって英国大使オールコックの愛犬トビーは絶命しました。
その墓は、大間欠泉に横に立っています。愛犬家の方々は、是非お参りしましょう。なぜなら、この悲劇には続きがあります。
悲劇に見舞われ、失意のどん底だったオールコック。トビーを胸にだき、おいおいと泣いていました。すると熱海村の人々が、オールコックの愛犬トビーを丁重に葬ってくれたのです。東南アジア、中国と回ってきていたオールコックは、アジアの人間は野蛮な人種だと思っていました。イギリス人が殺される生麦事件もありましたしね〜(この話の2年後ですが)野蛮人と思っていた日本人が、なんと自分の愛犬のために、墓にお供えものをしてくれたり、お坊さんを呼んでお経をあげてくれたりしたのです。オールコックは、これに痛く感動し、こんな言葉を残しています。
「皆があまりに優しくしてくれるので、私は胸がいっぱいになった。思わず自分が日本にいることを忘れるほどだった」
「日本人は支配者によって敵意を持つようにそそのかされていない時、とても親切な国民である。」
オールコック回想録より
熱海の村人の心ある行動が日本とイギリスの架け橋になったことは間違いなく、その後回顧録も書いています。
続いて訪れたのは・・・
湯前神社
熱海の湯が絶えないようにと、近隣の温泉旅館から熱い信仰を集めている神社です。どこにでもある村の小さい神社のようですが見どころ2つ
ポイント.1 温泉の手水
神社の鳥居をくぐってすぐのところにある手水舎。屋根もなく、一般的な龍もいません。石像のイザナギ・イザナミが
この時は、水が出ていなかったのですが
実はこの手水は、温泉なんです。日本でも手水が温泉という大変珍しい神社です。熱海の中でも、この地区は温泉が豊富なところです。さきほどの大間欠泉の墓所からもすぐ近くですし、また他の有名な湯処も近くです。
ポイント.2 澤田政廣先生の作品が?!
最近、警備を入れたと言います。何故かと言うと熱海市名誉市民である澤田政廣先生の若き時に作ったという像が、本殿の中に2体鎮座しているのです。一般には公開していないもので、春と秋の例大祭の時にのみ一般の方がみることができます。なんでも鑑定団に出したら、とんでもない値段になるんでしょうかね〜外からは、ちらっとしか像の雰囲気を覗いしることができません。
熱海七湯 小沢の湯
熱海七湯の「小沢の湯」で、温泉の源泉の話に。通常の温泉街で「温泉の権利」は、地域の人々がお金を出し合って株のようにお湯を分け合い宿や家に温泉をひっぱってきます。ところが、熱海ではちょっと違います。華族であった蜂須賀家(秀吉の家臣・蜂須賀小六の家ですね)が熱海に別荘を持ち、温泉の源泉ももっていた。ところが「うちは熱海の別荘ひきはらうから、源泉は町にあげますよ」と言い、蜂須賀の源泉は熱海の町のものになりました。その後、各源泉は熱海市が管理するようになっていて、源泉からお湯を集めたものを水道の水のように各温泉宿や家に配っているのです。だから普通の家でも温泉を引こうと思えば使えます。(※費用面や設備面がありますが)さらに熱海の水道の話へ脱線、熱海は高度経済成長期多くの温泉宿ができたおかげで、水道水が足りなくなった。そこで熱海市は隣町から高いお金を出して買うようになり、現在に至ります。故に、熱海の水道水は一般的な市町村の水道料金より割高です。隣町から引いてきている水が、写真の左側にある丹那湧水。東海道線の開通ためにトンネルを掘ったときに出てきた水です。この丹那トンネルは難工事だったために多くの人がなくなって、吉村昭氏も本にしています。丹那湧水は、日本百名水に毎回ノミネートされるのだが選ばれたことのない水です。
写真の場所・小沢の湯は、蒸気で温泉玉子が作れるのでも知られています。道路を挟んだ向かい側の酒屋さんでは、温泉玉子用のタマゴが売っています。ちなみに、この日は天神酒店は閉まってました。定休日は日曜日なのかな。
この後、いろいろ案内の方の行きつけの飲み屋さんや美味しい料理屋さんを駆け足で教えてもらいながら、出発点の熱海銀座商店街へ戻っていきました。
昭和の熱海銀座商店街
熱海銀座商店街の脇には細い路地があります。とても細いながらもなんだか素敵な感じでしたので、写真におさめてきました。気になった方は、ぜひ探してみてください。
昭和25年大火に見舞われた熱海の町
熱海の町は、昭和25年4月に大火、町の多くを燃やす大火事が発生。ガソリンの入れ替え中に、たばこを吸っていて引火した。なんともお馬鹿な。。。市の4分の1が燃え、1000軒ちかくの建物が失われ、町としての機能が失われました。政治家の先生たちの尽力により、今で言う激甚災害指定みないなものを受けた熱海。県と政府の補助金によって熱海の町は「新しい国際観光都市」立て直しをされました。その時に、昔ながらの温泉街ではなく当時ハイカラな温泉の町として生まれ変わっています。熱海が他の温泉地と一線と画す理由の一つがここにあります。で、補助金によって商店街も新しく立て直されたのですが、その時に建物は予算を削減するために一戸建てではなく、店子方式で3〜4軒つながった建物になっています。もし熱海商店街を通ることがありましたら、建物の建築構造にも目を向けてみてください。
ちなみに、熱海の町で夜の9時になると市の災害放送が防火の注意の放送を毎日しています。観光地なのに夜に防火の放送とは頂けない気もしますが、この時の大火のことを忘れないための放送なのです。防火や防災の備えは時間が経つと忘れてしまうもの、なにげない放送が役にたつのでしょう。
熱海の大火については、市役所のホームページにも載っています。
熱海大火の復興に関して、文豪坂口安吾も書いていた
青空文庫「安吾巷談 熱海復興 坂口安吾」http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43178_21390.html
「熱海のすみやかなる、又、スマートなる復興を祈る。」
以上、昭和レトロ散歩はおよそ1時間の密度の濃〜いものでした。ここに記することのできないエピソードや美味しいグルメ情報なんかもあって大変楽しかったです。
みなさんも機会がありましたら、ぜひ参加してみてください!
その他、観光地スポットをGoogleマップにポイントしたのはこちらです。
↓↓↓熱海観光のためにサイトをまとめもどうぞ↓↓↓
【熱海】便利ブックマーク【更新2016年11月】